top of page

2026月10月21日 ハバクク書3章

hccnichigo
2 日前
読了時間: 2分

「しかし、私は主にあって喜び踊り、わが救いの神にあって楽しもう。私の主、神は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる。」(18-19)


 神は、イスラエルを裁くために、異邦人であるバビロン帝国を用いられました。自分より正しい者が悪い自分を裁くのは分かります。しかし自分よりも悪い者が、自分を裁くために用いられるのは納得がいきません。

 しかし神は、時にそのような事をなさいます。そこまでして私たちの高慢を砕こうとされるのです。ただし、この後バビロン帝国にも神の裁きがくだります。その悪が見過ごされることはありません。


 神は、私たちの中から「自己義認」(神の御前に自分で自分を正しい者とすること)を徹底的に取り去ろうとされます。もちろん正しい者であることは良いことです。しかし、その正しさが神の基準ではなく、自分の基準による正しさである場合があります。さらにその自分の正しさを守るために、正しくないと思える者たちを裁き、差別し、除外することで、自らの正当性を確保しようすることもあります。そうなると、自分が思い込んでいる自分の正しさ、逆に罪となります。

 その代表者が、新約聖書に登場する律法学者、パリサイ人です。神は、私たちの内から自己義認というプライドを徹底的に砕かれます。そのために自分よりも悪いと見える者が、自分を砕くために用いられることがあります。


 そのような神の裁きの中で、ハバククは最後には、冒頭の御言葉のように賛美を歌います。それは裁きの後にある、真の救いをはるか向こうに見ながらの希望の賛美のように聞こえます。


天の父なる神さま

 どうか、私たちの内から「自己義認」というようなプライドを砕いてください。そして主よ、あなたの御前に自分の正しさを捨て、あなたの正しさの中に生きることができますように、どうぞ導いてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。  アーメン

文:関真士


 
 
 

最新記事

すべて表示
2026年10月23日 ゼパニア書2章

『神の義のさばきと普遍の愛』 「恥知らずの国民よ。こぞって集まれ、集まれ。」(2:1)  ゼパニア書第二章の最初の3節は、イスラエルの民に悔い改めを勧めているゼパニアを通しての神のことばです。イスラエルの民は神に選ばれた民でありながら、彼らはまるで異邦人のように、自らの罪深い生活を恥じようとはしなかったので、主の祝福を受けるに値しない民、ゼパニアが呼ぶように「恥知らずの国民」になってしまいました。

 
 
 
2026年10月22日 ゼパニヤ書1章

小預言書の後半部です。ゼパニヤ書は、主の日、主のさばきが記されています。ゼパニヤはヒゼキヤ王の子孫で、宗教改革を進めたヨシヤ王の時代の預言者でした。ナホムと同じ時代に、彼は南王国の偶像崇拝の罪を指摘しました。  主は地の面のすべてのものを断ち切ると言われています。特に、南王国ユダの主を求めない人々には厳しいさばきが下ります。その人々とは、偶像の祭司たち、天の万象を拝む者たち、ミルコム(異教の習慣)

 
 
 
2026年10月20日 ハバクク書2章

『正しい人はその信仰によって生きる』  新約聖書でも、何度がこのハバクク書の2章4節のことば、正しい人はその信仰によって生きる、が引用されていて、恐らくこれがハバクク書の代表聖句だろうと思うのです。そして、この2章では、直接的には、バビロン捕囚を語っているのですが、預言的には、恐らく主の再臨である、千年王国をも、暗に表しているようにも読めるのです。  3節「この幻は、定めの時について証言し、終わり

 
 
 

コメント


bottom of page