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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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 「イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われた。」で始まるこの章は、その前の4章(13章から16章)のいわゆるイエスの告別の説教を終えられた後のイエス様の御父への魂の底から出てくる祈りです。それは告別の説教のまとめであり、また、この福音書の要約のようなものだそうです。


 17章の全体は三つの部分から成り立っており、最初はイエスご自身のためのいのり、次は弟子たちのために御父の守りの力があるようにと願う祈り、最後は「弟子たちによって信じる(ように変えられた)人々」のための祈りです。


 私自身心惹かれたのは、やはり最後の部分です。「弟子たちによって信じる人々」とは、当時弟子たちの言動を直接見たり聞いたりしてイエスを信じた人々の事であり、また異邦の地や、後の世に、現代に生きる私たちクリスチャンを含めて、イエスを信じるようになった人々のことです。


 イエスは信じる人々(私たちを含めて)が「一つとなるため」と言うことを続けて三度(21,22,23節)も祈り求められました。父なる神が御子イエスの中におられ、御子が父なる神の中におられるように、私たちもイエスの中にいるように、またイエスが私たちの中におられるようになるためです(21節)。私たちが一つに結ばれるためイエスは栄光を私たちに与えて下さった(22節)。私たちが一つになる時、神がイエスを遣わされたことと、神がイエスを愛されたように私たちをも愛していてくださることを、この世が知るためです(23節)。


 ではイエスが祈られた「ひとつとなる」とはどういうことなのでしょうか。イエスと神が一つであったのは愛と服従においてひとつでした。信じる人々が一つになるとは、神がイエスを愛するように、またイエスが神を、神がイエスを愛するように、互いを愛することだと思います。その互いを愛する愛とは、最近関先生がメッセージして下さるように、お互いに色々な違いがあり、不完全な愛ではあるけれども、お互いに愛し合い、その心と心の関係に根付いて一つになることだと思います。

 そこに神の栄光を世の人々は見て、まだイエスを知らない人々がそこに導かれるのではないでしょうか。                                                           

 「使徒の働き」に記されているように初代の教会が「ひとつになって」いた時、イエスが彼らに語られたように、聖霊が彼らの上に臨まれた時、彼らの上に神の「力が注がれ」ました。そして、多くの迫害や攻撃の中にあっても生存でき、ますます多くの信じる人々を寄せ付けることができました。


 まさに毎週聖日礼拝の中の歌「わたしたちはひとつ 愛のきずなにより 神の霊にみちびかれ わたしたちはひとつ」の通りです。



愛する天のお父様、今日のみ言葉を感謝します。父なる神様と御子イエス様と聖霊が一つであるように、私たちも強い愛のきずなで結ばれて、一つとなり世の人々に主の栄光を示すことが出来ますように。そしてその栄光を見て、多くのまだ信じていない人々を私たちの仲間に導き入れることが出来ますように。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン


「あなたがたの悲しみは喜びに変わります。」―20節(抜粋)―


 娘が召されて今年で8年になりました。当時は、悲しくて、日々泣いてばかりいました。神様、なぜですか?の一点張りでとても苦しくて心がとても痛かったです。

 悲しみが喜びに変わることがあるのだろうかと思う日々が続きました。これもあなたのお導きなんですか、と大声で泣き叫んだことがありました。人生で初めて経験することでした。


 イエス様が弟子たちに語られたこと、「しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。」は弟子たちへの約束だったのです。私も3年すぎて心がうるおされたときにその御言葉を受け入れることができました。イエス様の御言葉の約束は私にも成就させていただけました。今もまだ涙は枯れることがありません。でも、それが以前のような辛い、悲しみでなくなりました。喜びの涙にかえていただけたのです。修養会でゲストスピーカーだったエジアさんの言葉が私にせまってくる思いでした。「深い谷間に湧き出る泉をみつけた。」それは、わたくしにも同じような気持ちでした。信じて神様の約束を待つことができて感謝でした。


 イエス様は、そのことを21節で女性の出産にたとえて語られました。

子どもの誕生はとても感動します。しかし、その感動の前には痛みがあり、苦しみを通らなければなりません。だが、子供が誕生すると激しかった痛や苦しみは忘れてしまいます。そればかりかそのような辛かったことはもう覚えていません。それが喜びの感動に変わるということなのです。


 エジアさんは、14歳のお嬢さんを亡くされて、お父さまを亡くされて、御主人を亡くされるというつらい人生の道を歩んでこられましたけど、深い谷間に湧き出る泉を見出すことができたのです。それは、彼女が神の約束を信じて待ってこられたからできたものだと思います。これからも、主のための彼女のミッションが祝福されることを祈りたいと思います。


「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」―33節(抜粋)―




 天の父なる神さま。あなたの御言葉の約束を今日も、明日も、これからもずっと信じて歩みます。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


「あなたがたが互いに愛し合うこと、わたしはこれを、あなたがたに命じます。」(17)


 15章は、よく知られているブドウの木の譬え話です。これは、最後の晩餐の席で語られたイエスの”遺言説教”の中のことばです。

 もちろんイエスのことばはすべて尊いものですが、特に十字架を目前とした最後の説教ですから、その内容の深さは格別なものがあるでしょう。


 イエスが繰り返し語っていることは「互いに愛し合いなさい」ということです。ここ数年の礼拝説教も、「互いに愛し合う」ということが繰り返し語られ続けています。それはもうしつこいくらいに語られています。それは、みことばが繰り返し語っているからです。

 年度聖句は、牧師が選ぶのではありません。にも関わらず、8つの御言葉の内の5つは「互いに愛し合う」ことを語っています。

 教会の主が、私たちに繰り返し繰り返し「互いに愛し合いなさい」と語っていてくださるのです。


 私たちは、互いに愛し合うことにおいて成長していきます。それが教会の成長です。私たちはいまだに成長の過程にありますから完成されたわけではありません。ですから愛することにおいて未完成です。しかし、その未完成な私たちを、神は完成された完全な愛で愛していてくださいます。この神の愛は、今も聖霊によって私たちに豊かに注がれています。

 

 この愛のゆえに、私たちは「互いに愛し合う」ことにおいて成長し続けるのです。その時、教会は荒野のオアシスのように、この世にとって癒しの場となるのです。これからも、私たちは共に成長していきたいと心から願います。



天の父なる神さま。

 私たちが「互いに愛し合う」ことにおいて成長し続けることができますように。いよいよ私たちが神の愛に満たされ、愛を分かち合うことができますように。私たちを聖霊に満たして力を与えてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

                               文:関真士


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