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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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 9節「彼らが悲しむときには、いつも主も苦しみ、主の臨在の御使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって、主は彼らを贖い、昔からずっと彼らを背負い、担ってくださった。」


 1節から6節には、神の裁きと、主ご自身がその裁きの返り血を浴びている姿が描写されています。

 その返り血とは、イスラエルの民が、神の裁きによって悲しむとき、主ご自身も苦しんでいることを意味しています。神の怒りは、怒りを発散してすっきりというものではありません。その怒りの分だけ、ご自身の心も痛むのです。

 なぜなら、そこに愛があるからです。愛する子を懲らしめるとき、懲らしめられている子も辛いですが、懲らしめている親の方がもっと辛いのです。


 そして神は、その裁いた民をそのままにはされません。「主の臨在の御使い」という珍しい表現ですが、裁いた分だけ主の愛とあわれみが注がれ、それでもなお主が共にいて、しかも共にいるだけではなく、背負って、担ってくださるというのです。


 子育て真っ最中の時には、子供を厳しく叱る時があります。叱られて落ち込んでいる子供を次の瞬間、息が詰まるほど抱きしめて「愛してるよ」と声をかけるのです。その時に、子供は義と愛を学びます。悪いことは悪いのだと、それには刈り取りがあること。しかし、どんなに悪いことをしても、自分が愛されていることには変わりがないこと。この義と愛を知ることによって、子供は真の神を知るようになります。


 それにしても、主に背負われている自分を想像してみてください。全身の力を抜いて、リラックスして、自分の全存在をその背中にあずけるのです。私たちの天の父は、そのようにして私たちのすべてを担ってくださるお方なのです。


 天の父なる神さま

 天の父であるあなたの背中に、自分が背負われていることを感謝します。あなたの体温を伝わってくるようです。私の全身をあなたにお任せいたします。どうかあなたの御心のままに運んでください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン                                           文:関真士


 

『主に贖われた者』


 エルサレムは、いわば地球のおへそにあたるのかもしれない。地理学的にも、アフリカ大陸棚とヨーロッパ大陸棚そしてアジア大陸棚がぶつかりあってできた地形にある。ですから、ガリラヤ湖から流れ出たヨルダン川がたどり着くのは、どこにも流れ出ることができない死海となって大陸棚のおへそに流れ着くように思えるのです。この地区に立つエルサレムを、父なる神は愛されて、シオンと幼名で呼び、やがてエルサレムの義をすべての王が見るようになるとこの62章で語っています。


 これは、主の再臨の時のエルサレムでありましょう、主の喜びがあなたにあり、あなたの神はあなた(エルサレム)を喜ぶとあるのです。そして、6節では「エルサレムよ、わたしはあなたの城壁の上に見張り番を置いた。」とあるのですが、この見張り番とは、誰のことなのかと思案しました。そして、調べるとエレミア書の1章12節に「すると主は私に言われた。「あなたの見たとおりだ。わたしは、わたしのことばを実現しようと見張っている。」とのみことばがあったので、見張り番とは主なる神のことかもしれません。しかし、この6節の続きには、「彼らは」と複数形になり、「主に求める者たちよ」とも続くので、主なる神自身ではなく、イザヤが何度も繰り返して伝えようとしている、主を求め続ける「残りの者=レムナント」のことが見張り番という意味ではないかと気づきました。


 父なる神は、御腕である主イエスを送り込まれ、そして十字架の後には、ひとにぎりの主イエスを信じ続ける、残れる者を見張り番として残されています。彼らがやがて神の愛されるエルサレムを堅く立ち上げることになります。そうしてエルサレムの民は、主に贖われた者と呼ばれ、神の都となってゆくのです。


 エルサレムは「エル=神」が「シャローム=祝福、恵み、慰め」の町、神が祝福された、モリヤの山であります。そして、私たちも主イエスを信じることによって、神の子となり、残れる者、神に愛されるユダヤの民の兄弟となったのです。


祈り

私たち夫婦は、幸いにも、このエル・シャローム、エルサレムを訪ねることができました。聖地を訪ねることで、いっそう聖書の中の話がリアルに、自分の頭の中で画像として浮かび上がってくることに感謝しております。 私たちも主によって、残れる者の中に入っていることにも感謝致します。アーメン

文: 森 宗孝


 

『ナザレ村での朗読』


 このイザヤ61章は、ルカ4:17~22で示されている、主イエスが自分の故郷のナザレ村の会堂で、イザヤ書が渡されて、朗読されたみことばです。この時代では、会堂の中で先生(ラビ)的な人が聖書を読みあげて、さらに有名な律法学者などの解釈をもって紹介するというのが、ユダヤ人のシナゴグ(会堂)での礼拝の流れでありました。今日の教会の礼拝と似ているようです。しかしながら、この時にイザヤ書を渡された主イエスは、この61章のすべてを読まずに、1節と2節の初めで、朗読を途中で辞められたのです。そして巻物をおいて言われたのは、「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。」ルカ4:21と宣言されたのです。


 それは、この61章1節にあるように「神である主の霊がわたしの上にある。(これは主イエスの洗礼を受けた時に鳩のように、御霊が降りました)貧しい人に良い知らせを伝えるため(天の御国が近づいている)心の傷ついた者を癒やすため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年」ここまでは、主イエスが初臨されて人を癒し、傷ついた者、父なる神から離れてしまった者たちの魂を解放されたことで、実現して、主の恵みの年(ヨベルの年)が、主イエスによって実現したのですということを、子供の頃から育った故郷の村で宣言されたのです。


 しかし、61章で続く2節以降のことは、まだ実現していない、主の再臨の時の話であるので、主イエスは、読み上げませんでした。2節以降を省略:「われらの神の復讐の日を告げ、すべての嘆き悲しむ者を慰めるために。シオンの嘆き悲しむ者たちに.....10節 私のたましいも私の神にあって喜ぶ...花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。」これは、主イエスの再臨の時に実現する王国の時のことを語っているので、主イエスは61章の全部をお読みにならず、最初の初臨を示すところで、今日この聖書のことばが実現しました。と宣言されたのです。


 ナザレ村の会堂には、主イエスが幼かった頃に一緒に育ち、遊んだ青年たちもいたことでしょう。恐らく、マリアの夫ヨセフはすでに世を去っていたのかもしれませんが、主イエスの兄弟たち、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダ、そして姉妹たちを、子供の頃から知っている近所の人たちも居たことでしょう。ですから、イエスが神の代弁のようにして、聖書のことばが自分によって実現したと言うのを聞いて憤慨し、神を冒涜している、大工の息子として、ナザレの村人たちは、主イエスを丘から突き落とそうとしたわけです。その時、主イエスは言われました「預言者はだれも、自分の郷里では歓迎されません。」


 このように、イザヤ書や他の預言書でも、救い主の到来が二度あることなど予想外で、彼らには初臨の主の姿も、再臨の主も同時に幻として表されて、そのように描いていたのでした。特にイザヤ書には、救い主が、インマニュアルとして世に生まれ、育ち、伝道し、そして神のしもべとして人々の救いをまっとうし、さらに死に打ち勝ち、やがて御国を建設されることが描かれています。それを読む私たちは、主イエスの初臨のことが実際に実現して、預言されたようにしもべととして来られたことを理解しておりますから、やがてもう一度戻って来られる再臨の預言も、絶対に確実であると信じることができるのです。


祈り

主イエスが父なる神のしもべとして、私たちの咎のために十字架の苦しみを受けて、私たちの罪の赦しの象徴となったことに感謝いたします。そしてやがてもう一度来られる主を待ち望みます。アーメン 

文: 森 宗孝


 
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