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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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『神のみこころなら』


 パウロはシラスとテモテがマケドニアから下ってきたので伝道に専念した。イエスがキリストであることをユダヤ人たちに証しした。だが、彼らが反抗して口汚くののしったので、パウロは衣のちりを振り払って言った。衣のちりを振り払うことは、自分には責任がないということを示す象徴的行為です。この時のパウロの気持ちはかなり憤りを覚えていたのではなかったのでしょうか。そして、パウロは6節(抜粋)で、「あなたがたの血は、あなたがたの頭上に降りかかれ、私には責任がない。今から私は異邦人のところに行く。」と言ったのである。そのことは、彼自身からでたことで神のみこころではなかったのである。パウロはおそらくユダヤ人の迫害の恐れもあったのだと思います。 そして、主は幻によってパウロに言われた。神のみこころを語られたのである。


「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。」―9節―          


「わたしがあなたとともにいるので、あなたを襲って危害を加える者はいない。この町には、わたしの民がたくさんいるのだから。」―10節―


 パウロは、主の励ましの言葉にどれだけ勇気づけられたことでしょう。それゆえに、彼はエペソに一番長く滞在して福音を語ったと言われています。時がきてエペソを離れることになって、人々がもっと長くとどまるように頼んだが、パウロは、「神のみこころなら」を優先してエペソから船出したのである。


 神のみこころを知ることは簡単なことではないです。今日、私も神のみこころに触れさせていただきました。息子の会社の新品のズボンの裾上げを四枚していて、一枚を切りすぎてしまったので同じものを買いに大手の店に行ったけどなかったので、最初に行った店に似た物があったのでそこのチェーンが帰る途中にあったのでそれを買いに行く為にそこに向かっていました。ところが20分間も運転していて道に迷って目的地に行けませんでした。とても信じられないことでした。あきらめて帰途につくと、しばらくして息子が来たので事情を話しました。すると、私が思うような簡単なことではなかったのです。会社によって、ズボンの色が違う事、ポリエステルの生地でできたものは火災の時に体にやけどをするようなことを言ったのです。運転しながら、店に入って祈っても与えられなかったのは、神さまのみこころではなかったのですね。本当に感謝でした。


 愛する天の父なる神さま。自分の思いで先走ったこと、神のみこころに従うことができなかったことを示してくださって感謝します。いつもあなたのみこころが何であるかを示してください。それに従うことができるように導いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。


「この町のユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも素直で、非常に熱心にみことばを受け入れ、はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた。」(11)


 激しい迫害の中、パウロの異邦人宣教が進んできます。ベレヤという町では、みことばを受け入れる者たちが現れました。ここに「毎日聖書を調べた」と記されています。ベレヤの町の人々のこの姿勢は素晴らしいと思います。イエスが本当にメシヤであるかどうか、それを感情や感覚ではなく聖書に答えを求めました。聖書にどう書かれているか、これが唯一の判断基準です。


 これは私たちも身につけたい事です。常に聖書にはどう書かれているかを基準として、物事を判断していくのです。そのためには、毎日聖書を調べる、つまり聖書に精通することです。


 聖書を調べるためには、調べる方法があります。ただ読んだだけでは理解が難しい箇所がたくさんあるでしょう。その時には、適切な解説書などを用いるのもいいでしょう。あなたが難解だと感じる箇所は、他の人にとってそうである場合が多いです。ですから何だかの答えが出ていることが多くあります。


 聖書を深堀するととてつもない宝物が発見されることでしょう。


天の父なる神さま

 ベレヤの町の人たちのように、常に聖書に答えを求め、聖書を調べる私たちでありますように。そしてみことばの深みへと私たちを導き入れください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

                                文:関真士


『聖霊によって止められる』


 この16章は、パウロの第二次伝道旅行が背景にあります。7節「こうしてミシアの近くまで来たとき、ビティニアに進もうとしたが、イエスの御霊がそれを許されなかった。」6節にも聖霊によって禁じられていた、との記載があります。当時のアジアとは今のトルコ領の西側を指していたようです。そこには後から出てきます、ラオディキア、コロサイ、エペソ、ティラティラなどの町があったのですが、この第二次伝道旅行では、アジアでみことばを語ることを聖霊によって禁じられていたというのです。実に不思議な出来事です。アジアでは禁じられていたものの、トロアスという港町から向かい側の今のギリシャ、マケドニアはすでにヨーロッパ大陸ですが、そちらに向かい、ピリピやテサロニケなどを訪ねることになるのですが、有名なパウロとシラスが鞭打たれ、牢に入れられた時に地震で牢獄の扉が全部開き、やがて看守とその家族が救われることになります。31節「二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」この私達の家族伝道に励ましになる、嬉しいみことばが語られたわけです。主イエスを信じれば、あなたもあなたの家族も救われる希望があります。


 しかし、今日は聖霊に止められる、このことに注目したいと思います。日本で長らく宣教師をされた方と話していた時のことです。特にこれからの自分達の進むべき道をどうしたら良いかと私たち夫婦が悩んで相談しに伺った時のことです。皆さんも、ちょうど二股に別れている道にさしかかった時に、右にゆくべきか、左にゆくべきかと悩んだ経験がある事と思います。彼の例話は、主を信じる人は多くの場合、岐路にさしかかると、どちらに進べきかと神からの信号、道路の信号である緑の進めという指示が現れるのを待とうとする、しかし、そうではなく、私たちが最も注意を払わなければならないのは、信じて進む時に現れた赤信号である。主からの赤信号に気がつかないと大事故にあったりしてしまう。どちらにつき進むかを決めることよりも、選んだ方向に進む時に、もしも聖霊から止められる事、赤信号がともったならば、元の場所に戻りやり直せば良い。とアドバイスを受けて納得した経験を思い起こします。


祈り

主よ、自分の性格で、どうしても、自分の思いで進み出してしまいます。どうか聖霊によっての赤信号がともった時に、それをはっきりと見極める事ができる心をお与えください。そして元の道に引き返す勇気をお与えください。いつも見守ってくださることに心から感謝致します。アーメン 

文: 森 宗孝


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