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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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 私は最近、罪悪感に陥る時があり、10章で背信の危険性が書かれている26-27節が私の胸に「グサッ」と刺さった。背信という言葉を調べてみた。キリスト者が、真理を捨てて信仰を放棄し、神やキリストの教えに敵対する行為、だそうだ。


 クリスチャンの友人に相談すると、『「罪悪感」は敵が一番喜ぶのでやめなさい』と教わり、大変ホットしたものだ。ああ、持つべきものはクリスチャンの兄弟姉妹と、感謝し実感する。


26節「もし私たちが、真理の知識を受けた後、進んで罪にとどまり続けるなら、もはや罪のきよめのためには、いけにえは残されておらず、」

27節「ただ、さばきと、逆らう者たちを焼き尽くす激しい火を、おそれながら待つしかありません。」


 だが、17節で、「わたしは、もはや彼らの罪と不法を思い起さない」と言われ、大変有難く、聖書に書かれているのでもっとホッとしたものだ。


 この章は、イエス様がお生まれになる以前の旧約時代は、動物のいけにえ(影)を持って自分の罪を贖って頂くという律法であったが、それは不完全である。新約時代(現在)のキリストの十字架(実物)がこそが永遠の罪の赦しをもたらす「唯一のいけにえ」である、と解説されている。(1節)


 イエス様の血によって神へ近つく確信を持ち(19ー25節)、信仰の歩み、愛と善行、集会への参加を忍耐強く続けるよう(26ー36節)勧めている。


1節「律法には来るべき良きものの影はあっても、その実物はありません。ですから律法は、年ごとに絶えず捧げられる同じいけにえによって神に近づずく人々を完全にすることができません。」


19節「こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖女に入ることができます。」


23節「約束してくださった方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか。


天の父なる神様、

どうぞ大胆に希望を告白するものとさせて下さい。御言葉の防具を身につけさせてください。たくさんの人々が、真理であり道であるイエス様を受け入れられますように、御名により祈ります。

文:マッカーター政子



 

「もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、(13)まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」(14)


 皆さまよくご存じのように、キリスト教信仰とは、単に教会の会員として加わり、その礼拝に出席することだけではなく、私たち一人ひとり個人として、その心と霊をとおして神と親しく交わることです。それを可能にしてくださったのがイエス・キリストです。

 当時のイスラエルの民は、律法にもとづいて、すべてのものは血によってきよめられ、罪の赦しが与えられるものと信じて、祭司は幕屋、聖所に入って礼拝をささげ、その中のすべてのものにやぎと子牛の血を注ぎました。至聖所には大祭司だけが毎年一度だけ入ってすべてのものに血を注ぎました。それ等の血は自分たちの罪、また民の罪の贖いと信じていました。

 しかし、地上の人間の手で作られたこれらの幕屋や聖所は、天にある本物の模型にしかすぎないものなので、動物の血を注いできよめられたと信じていても、「礼拝する者の良心を完全にすることはできません」(9)でした。だから、傷のない、罪のないキリストがご自分のきよい血を、私たちの罪の贖いの犠牲として、ささげてくださいました。それも、それまでの祭司たちのようにではなく、ただ一度だけで罪の贖いと救いが完成しました。それは何という驚異でしょう、勝利でしょう。 そのことの故に、私たち一人ひとりが、神のみ前に出て、神と親しく交わることができるようにしてくださったのです。このような犠牲をしていただくほどの価値のない私たちですけれども、あの惨い十字架の上で血を流して下さったキリストに、最高の感謝をささげたい気持ちです。


 愛する天のお父さま、現代生きる私たちは、旧約の人たちと違って、動物の血ではなく、イエス様の十字架の血できよめられ、神のみ前に出ることを許され、直接祈ることができて、自分の本心をうまくは話せなくても聞いてくださること、神の寛容の中で、愚痴さえも怒りさえもぶちまけてしまう失礼をさえ許して下さる恵みと愛を感謝します。


 

「その時、わたしはイスラエルの家、ユダの家との新しい契約を実現させる。」


 祭司たちが仕えていた古い契約は、天にあるものの写しと影に仕えています。モーセが最初に幕屋を設営しようとしたとき、神が「よく注意して、山であなたに示された型どおりに、すべてのものを作らなければならない。」と言われたことは、それはひな型であることが明らかです。


 しかし、新しい契約について聖書は三つのことを述べています。


 石の板に書かれた律法ではなくて、律法が人の心に書き記されることです。


 そして、イスラエル人だけでなく、異邦人も「神の民」となることです。


 また、罪が思い起こされないことです。


 これらのことを成し遂げられるお方は大祭司イエスだけです。イエスの仲介者としての務めが必要だったと述べられています。イスラエルの民が初めの契約を守り通すことができなかったので、主なる神は新しい契約を用意されたのです。神の深いあわれみ、恵みが伝わってくる思いです。


 12節で述べられている御ことばに目が留まりました。


「わたしが彼らの不義にあわれみをかけ、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」


 このみことばは、イザヤ書43:25にも述べられていて、私が洗礼を受ける決心をさせられた御ことばです。私の罪をぬぐい去ってくださり、しかもその罪を思い出さないと言うことを目にしたときは、涙が止まりませんでした。


「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたの背きの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」イザヤ書43:25

 

 ハレルヤ。主の御名を心から賛美します。私たち異邦人のためにも新しい契約へと導いてくださったことに感謝します。あなたから与えられた新しい律法をいつまでも私たちの心に書き記されていくことができますように導いて下さい。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


 
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