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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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  • hccnichigo
  • 20 時間前

『バテシェバ』


 ダビデ王の姦淫相手であるバテ・シェバの人柄ついては、聖書はあまり多くは語っていないので、想像するしかないのですが、サムエル記第二11章に、ダビデ王が王宮の屋上から、からだを洗っている非常に美しい女性を見たところから、始まり、彼女が妊娠したことをダビデ王に告げる。悪妻説では、彼女がわざとからだを洗っている姿を見せたのではないか、と言う説と、いやいや、この時代では、王の命令は絶対で、断ることはできない状況であったとの解釈の方が妥当かもしれません。そして列王記第一1章では、ダビデ王の世継ぎのことで、預言者ナタンに助言をして、ソロモンを王として迎えるように手配した姿を見ると、彼女の賢さに気づきます。


 なぜこのバテ・シェバの話をしているのかと言うと、箴言最後の31篇の1節で、誰がこの箴言の著者なのか、2説あるのです。「マサの王レムエルが母から受けた戒めのことば。」これがソロモンであったという説と、別の地域の王とする説ですが、レムエルというヘブル語は、神のための者という意味で、マサは、託宣とも重荷とも読めるので、自分は、すべての流れから、これは、ソロモン王であったとしています。そうすると、ソロモン王が母である、バテ・シェバから受けた戒めのことばとなるわけです。


 2節「あなたの力を、女たちに費やしてはいけない。王を滅ぼす者たちに、歩みを委ねてはいけない。」はっきりと母から戒めを受けているのに、ソロモン王は妻が7百人、側女が3百人いたとあります。

 それが、王を滅ぼす原因ともなったのです。バテ・シェバは自分のことを、脳裏において戒めを語ったのかもしれません。10節「しっかりした妻をだれが見つけられるだろう。彼女の値打ちは真珠よりもはるかに尊い。」12節「彼女はその一生の間、夫に良いことをし、悪いことをしない。」20節「苦しむ人に手を差し出し、貧しい人に手を差し伸べる。」そして30節「麗しさは偽り。美しさは空しい。しかし、主を恐れる女はほめたたえられる。」恐らく、自分のことを思いつつ、最初の息子を打たれてしまった悲しさもあったのでしょう。

 最愛の息子ソロモンに人生の忠告をした内容が、この最後の31篇、しかし、姦淫という罪は、主が決して赦すことのない罪でありますから、ソロモン王が、母の忠告に反して、政治的結婚から始まって、異教の神々がエルサレムに持ち込まれ、王国を滅ぼす結果となってしまった歴史は、罪の根深さを語っているのかもしれません。


祈り

 私たちも、心から主を恐れる者でありたいと思います。まず何よりも求めるのが、神の義であるならば、罪の裁きがあることは明白です。しかし、私たちには十字架で私の罪の身代わりになってくださった、主イエスがおられることで、恐れはありますが、悔い改めの赦しの道が開かれたことに感謝致します。

アーメン 

文:森 宗孝


 

「神のことばに付け足しをしてはならない。

 神があなたを責めて、

 あなたが偽り者とされないために。」6節


 聖書(旧約、新約合わせて66巻)は、すべて神の真理のみことばです。それは私たちに向けられている神からのメッセージです。その神のことばに付け足すこと、取り除くことは誰もできません。なぜなら、そのようなことをする者には神の試練があるからです。申命記4:2,ヨハネの黙示録22:18~19にも述べられています。


「私があなたがたに命じることばに付け加えてはならない。

 また減らしてはならない。」申命記4:2


「私は、この書の預言のことばを聞くすべての者に証しする。

 もし、だれかがこれに付け加えるなら、神がその者に、この書に書かれている災 害を加えられる。」ヨハネの黙示録22:18 


「また、もし、だれかがこの預言の書のことばから何かを取り除くなら、神は、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、その者の受ける分を取り除かれる。」ヨハネの黙示録22:19


 神のことばに付け足すことや、取り除くことは、神を変えようとする傲慢な思いになることだと言われています。自分の意思を優先にして神を二の次にしてしまうことになるということでしょうか。神のことば、特に箴言は、時には私たちにとって厳しいことばが語られています。それでも、神のことばに従順になっていくことが、神のことばに付け足したり、取り除くという誘惑に陥らないことにつながっていくことではないでしょうか。



 天の父なる神さま。あなたが私たちに与えてくださった聖書は真理のみことばです。あなたのみことばから外れて迷っている時が多々になる時があります。そのような時には、私たちの足をどうぞ義なる道へと導いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


 

 この箴言29章を読むとき、私は「感情をどう扱うか」ということを考えさせられます。


「愚かな者は感情のすべてをぶちまけ、知恵のある人はそれを内に収める。」(11)

 

 私は、思ったことを素直に言葉にしてしまうところがあります。悪気があるわけではなく、ただ正直に感じたことを伝えたいだけなのですが、その言葉が思わぬ誤解を生んでしまうことがあります。

 一方で、怒りや悲しみのような強い感情が湧くと、言葉にすることができず、心の中にしまい込んでしまい、それが積もると、態度や表情に出てしまうことがあります。


 あるとき、母の介護の中で疲れや焦りが重なり、思い通りに進まないことが続きました。心の中では「どうしてわかってもらえないんだろう」という思いが何度も浮かびましたが、その気持ちを言葉にできず、黙って片付けを続けていました。

 その夜、ディボーションを書こうと思い、その箇所が29章で、この11節の言葉が心に響きました。


「知恵のある人はそれを内に収める。」 この“収める”という言葉は、ただ我慢することではなく、神さまの前に自分の感情を差し出すという意味なのだと感じました。

 私は、「神さま、この心をあなたに委ねます」と祈ってみました。すると、張りつめていた心が少しずつやわらいでいくのを感じました。


 知恵とは、感情を押し殺すことではなく、その感情を主のもとに持っていくことなのだと気づかせてもらいました。怒りも悲しみも主の前に差し出すとき、聖霊が心を整え、正しい方向に導いてくださるのです。


 ある日の礼拝メッセージのなかで、「自分の力ではなく、聖霊に頼り、御言葉に耳を傾け、へりくだって従うこと」と語られましたが、これこそが本当の知恵の道なのだと思いました。感情をどう扱えばよいのか分からない時こそ、御言葉を通して「主は今、何を語られているのだろう」と耳を傾け、聖霊の導きを求めたいと思います。


愛する天のお父さま

 私は思ったことを素直に言葉にしてしまうことがあります。けれど怒りや悲しみが心にあるときは、うまく言葉にできず、黙りこんでしまうこともあります。 どうか聖霊さま、私の心を静め、感情をあなたにゆだね、 御言葉によって平安と知恵を与えてください。

 感情に流されず、主の導きを見上げて歩む者とならせてください。


 イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン


 
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