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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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 この章は、すべて書き出したい御言葉で一杯です。ぜひ、じっくり読んでみてください。

 

 今日は、私の証を書きたいと思います。

 今から32年ほど前、牧師になりたての頃です。あるリトリートに参加しました。その中で、聖霊によって心が探られ、一つの罪が示されました。妻も同時に同じ罪が示されました。その罪とは、ある方に対して、言うべきことを言わなかったことによって、その関係を壊してしまったことでした。その方との関係が壊れることを恐れて言えなかったのです。それが後になって悪い結果をもたらしてしまいました。恐れに基づいて妥協した結果は最悪のものでした。結局、自己保身です。その罪が示されたのでした。


 私と妻は、打ちひしがれた心をもって、とにかく主の御前で悔い改めようと部屋に戻りました。その時、部屋に入った瞬間、そこには喜びが満ちていたのです。天使がラッパを吹きながら「よく帰って来た!」と歌って歓迎してくれているのです。

 

 その時、このイザヤ書35章8節からの御言葉が示されたのです。「そこに大路があり、その道は『聖なる道』と呼ばれる。汚れた者はそこを通れない。これは、その道を行く者たちのもの。」


 この「大路」とは、神に立ち返る道、それが悔い改めの道なのだと悟りました。悔い改めとは、神に立ち返ることなのだと、そして神は一人の罪人が悔い改め帰って来ることを喜ばれるお方であることを知ったのです。

 失われた一匹の羊、失われた一枚の銀貨、放蕩息子、これらのたとえ話で、イエスが語られている「天の喜び」とは、このことなのだと知ったのです。


 確かに罪を犯した者であっても、心から悔い改め、主に立ち返る者を、神は喜びを持って受け入れてくださるのです。あの放蕩息子を走り寄って抱きしめた父親の姿こそ、まさに天の父の姿です。

 イエスの十字架のゆえに、私たちの罪は赦され、その血によって罪が清められ者として、いつでも、主のもとに立ち返る者でありたいと思います。 


  天の父なる神さま

 イエスさまの十字架のゆえに、私たちの罪が赦され、清められたことを感謝します。そのゆえに、私たちは罪人のままで、主のもとに行くことができます。なんという恵みでしょうか。どんな自分であっても、主のもとに立ち返る者でありますように、悔い改めることのできる砕かれた心をお与えください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン                                           文:関真士

 

『ハルマゲドン 主の復讐の日』


 この34章は、直接的にはユダヤの民と対立するエドムの民(イサクの息子で、ヤコブの兄弟、長男のエサウの子孫がエドム 創世36章)への裁きですが、同時にやがて再臨のあとに下される、主の復讐の日も描かれていると思います。エドムが裁かれる理由は、兄弟国であるにもかかわらず、イスラエルが苦境にある時に、助けるどころか、略奪したりするのです。実際にバビロン捕囚、紀元前587年に、敵に加担し、逃げ惑うイスラエルの民を引き渡したりするのですが、そのような200年後のエドムの姿を、イザヤは見ていたのでしょう。ですから、エドムはやがて裁かれると預言しているのです。


 それだけではなく、2節にあります「主がすべての国に向かって激しく怒り、そのすべての軍勢に向かって憤り、彼らを聖絶し、虐殺されるにまかされたからだ。」とありますのは、黙示録20章にあります千年王国の終わりにサタンが解き放され、諸国の民(主イエスに反逆する不信者たち)を率いて、エルサレムに向かって陣営をひく、彼らの数は海の砂のようであった。とあります、そのすべての国に、天から火がくだって来て、彼らを焼き尽くしたという、ハルマゲドンの戦いを予表している預言でもあるのでしょう。(黙示録16章16節参照)主イエスが王として君臨する千年王国でも、なおかつ主に反逆する者たちが多くでてくる、これは私たちの罪がいかに深いかを表しているのでしょう。そして、主によって聖なる民とされているユダヤ民族に対する嫉妬もあるのかもしれません。歴史の中でも、常にユダヤ民族への迫害がありました。この千年王国でも、きっとサタンにそそのかされて、エドムのように、エルサレムに向かって、反乱軍が集められることになるのでしょう。


 ハルマゲドンという意味は、メギドの丘ということで、メギドの町はエズレル平原にあって、カルメル山から一望できる平原でした。山の多いイスラエルの中で、唯一たくさんの軍隊が集合できる平原です。私たちはイスラエル旅行の時に、カルメル山から、この平原を見ながら、やがて起こるであろうハルマゲドンの戦いを想像したのです。主の復讐の火には、地には血が染み込む、大虐殺の日と描かれています。

しかし、神の審判はあるものの、祝福の都であるシオンは守られることも確かであるます。


祈り

 いつ、どのように主の怒りが下されるのか、父なる神のみがご存知でありますが、どうか怒りの炎から信じる者たち、主イエスを愛する者たちが救われますように。アーメン

文: 森 宗孝


 

『荒らす者の運命』


 この33章は、「わざわいだ」という言葉から始まる通り、人を踏みにじったり、強奪して利益を得る者、賄賂を受け取る者、横柄な民、これらの者はわざわいで、その者たちのだれが焼きつくす火に耐えられるかと説いていると共に、荒廃するユダの町、大路は荒れ果ててしまう姿も描いていて、神との契約は破られて、町々は捨てられると預言しているのです。しかし、それだけでは終わらずに、同時に希望も示されています。10節「今、わたしは立ち上がる。ー主は言われるー 今、わたしは自らを高く上げ、今、わたしは自らを高める。」 とまるで主イエスの訪れを予表しているような一節もあるのです。


  1月から新約聖書から視るイザヤ書の学びが始まりました。イザヤの生涯は、愛する民から受け入れられずに、悔い改めとユダのわざわいを預言するのですが、民の心は鈍く、その目は堅く閉じていて、立ち返って癒されることもありませんでした。嫌われ者の預言者だったので、イエスの生涯に重なることが多いのです。


 旧約聖書に登場する数々の預言者たちは、聖なる民であるはずのイスラエルの民が、自分自身の幸福、この世の祝福を求め過ぎて、神から離れてしまった時に、預言者が送られ、悔い改めを勧めるのですが、やがて北王国イスラエルと南王国ユダとに分裂し、仲違いしてしまう中で送り込まれて来ています。しかし、悔い改めをしない民をアッシリア帝国やバビロン帝国を用いて、神殿も破壊され、民は離散の目にあうのですが、主は「今、わたしは立ち上がる」と将来の約束をされているのです。しかし、神の愛するユダヤの民を荒らす者の運命も定められていると預言するのです。そうして荒廃する中から、神の慰めによって、やがて荒廃するも、残れる者がおり、主の日、世の終末において祝福をうけるとの希望も語られています。22節「まことに、主は私たちをさばく方、主は私たちに法を定める方、主は私たちの王、この方が私たちを救われる。」そうして、救われる者は、どのような者かというと15節から16節に 「義を行う者、公正を語る者」救われる者たちは、神の義をこのわざわいの世で行う者たちは、救われると約束されています。しかし、人を裏切り、踏みにじる者は、やがて自分自身が踏みにじられ、裏切られることになるのです。


 父なる神が、この世の人を救い出すために、御子イエスを、私たちが理解できるように、人となって送られてきました。これは神の愛のしるしです、そして永遠の神の愛は、限りなく深いほど、神の怒りは激しい焼き尽くす火となってしまいますので、主を恐れることは、その財宝であると語られています。人が神に救われたいとするのが、律法とすれば、神が人を救おうとされるのが福音となるのです。


祈り

どうか私たちは、聖霊の力によって、義を行う者であり、公正を語る者として、この世で生きることができますように、私たちを導き続けて下さい。アーメン 

文:森 宗孝


 
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