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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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「わたしは、だれが死ぬのも喜ばない―神である主のことば―。だから立ち返って、生きよ。」(32)


 エゼキエルが活躍したころ、イスラエルの人々は「父が酸いぶどうを食べると、子どもの歯が浮く」、つまり、「父親の罪のために子供が罰を受けている」(リビングバイブル)ということばを信じていた。しかし、神様は、子は父の咎について負い目がなく、父も子の咎について負い目がないと教えて下さる。公正と義を行い、神様のすべての掟を守るなら、必ず生きると神様は仰る。たとえ悪人であっても、すべての背きから立ち返るなら、必ず生きると神様は仰って下さる。そんな神様に対して、「主の道は公正でない」という人々がいたようだ。


 放蕩息子の話を思い出した。私はかつて、この話を兄の気持ちで読んで、調子のいい弟に腹を立てた。兄が怒るのも無理はないと。


 しかし、神様は一人ひとりに生きよ!と願ってくださる方である。どんな悪人も死んでしまうことを望んでおられない。神様は人の弱さを十分にご存じだ。なぜそのような考え方になったのか、なぜそのような行動をするのか、すべて知っていて下さる。


 罪を犯さない人がいるだろうか?自分を善人と思っている兄だって、心の中で弟を裁き、妬んでいるのだから罪人だと思うのだ。罪に気が付いていない人のことも、神様は憐れみ、寄り添って下さる。すべての人を愛して下さり、神様のもとに招いてくださる。どんな人の死をも神様は喜ばれない。すべての人が生きることを、願って下さるお方である。


 そして、私たちが神様に立ち返るとき、神様は放蕩息子の父のようになりふり構わず駆け出し、喜びを体いっぱいに表現して迎えて下さる方であることを思わされました。


天のお父様 今日のみことばをありがとうございます。神様の愛の深さを思い巡らしました。その愛で私が愛され、赦され、救いに入れられていることを感謝いたします。私の思いと行いがあなたにあって、ますます変えられていきますように。まだ福音を受け入れることのできていない家族、友達の事を思います。彼らの心も開かれ、神様の愛が届きますように。イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン


 

 エゼキエル16章はとても長い章である。ここではエルサレムの町が主の花嫁にたとえられています。今でも、教会は主の花嫁であることがメッセージの中で多々に語られています。


 主は、生まれた時にだれも世話しなかった一人の娘をあわれみ、彼女の汚れを洗いきよめ、美しく育てあげ、契りを結んで花嫁とされたのに、彼女は主を忘れて他国の男性と姦淫を行ったのである。しかも、主はカナン人が住んでいた異郷の町を選んで、豊かな恵みを注ぎ、律法を与えて彼らと正義の契約を結ばれたのである。だが、この町の人々は主を頼らず異国の軍事力を頼るものとなりました。そして、花嫁は主人からもらったお金を貢物として姦淫を行うという恐ろしいことをしたのです。これは、遊女が姦淫によってお金を得るという罪よりも最もおそるべきことだったのです。


 このような罪を主が赦すはずがありません。その結果は、主はこの花嫁を辱められることを宣告されています。彼女が行った偶像礼拝、外国に軍事的な援助を求めた罪ゆえに、最後はその外国に滅ぼされます。主は、彼女が親、姉妹達よりももっと忌み嫌うべき罪を犯したのでさばかれるのでした。


 なんだかドラマを観ている気持ちにさせられますが、現在で私たちクリスチャンにも起こりうることだと思います。すべて欲しいものが与えられた時に陥りやすい大きな落とし穴にたとえられます。過去の苦しかったことを完全に忘れてしまって、大恩人の忌み嫌うことを平気でやらかしてしまいます。日本の諺の中でよく使われていること、喉元過ぎれば暑さを忘れる、恩を仇でかえす、などです。私たちの罪のために十字架につけられ血を流されたイエス様の無償な愛を忘れてしまって、とんでもない横道にはしってしまうことがあると思います。しかし、主は、花嫁自身が心から悔い改める道をも用意してくださっています。主は忍耐を持って悔い改めていく人々を待っていて下さいます。主の深いあわれみは永久までも続きます。


 ハレルヤ、主の御名を心からほめたたえます。十字架の血潮によって私たちを主の花嫁としてくださっていることを感謝します。どうぞ、日々、主が私たちになされたことを覚えて、謙遜な心をもって、主を愛し、他者を愛していくことができますように守って下さい。感謝してイエス様の御名によって祈ります。アーメン


 

 預言者の中で「ぶどうの木、ぶどう園」というには、イスラエルの民のことを指してます。

 ぶどうの木は、実を結ばなければ、それ以外に何の役にも立ちません。幹は細いので、それで家具を造れるわけでもありません。実を結ばないぶどうの木は、薪くらいにしか使えません。

 そのように実を結ばないイスラエルの民は、ぶどうの木のように火で焼かれる、つまり神の裁きによって滅びるという警告です。

 

「彼らがわたしの信頼を裏切ったので、わたしはこの地を荒れ果てさせる。ー神である主のことば。」(8)


 イスラエルの民は、実を結んでくれると信頼、期待していた神の信頼を裏切ってしまいました。

 そう考えると、私は何度神の信頼を裏切ったことだろうと思いました。裁かれて当然の自分です。しかし、そのような者を神は見捨てず見放さず、それでもな「高価で尊い」と、その価値を変わらずに認めてくださる、そのような主の愛に感謝をします。

 

 恵みによって救われた者として、神の信頼に応えていきたいと心から願います。主が私たちに託してくださった宣教のことばを、地の果てまでも宣べ伝えていきたいです。そのために、聖霊の力を求めます。


天の父なる神さま

 あなたの信頼に応えるために、どうか私たちを聖霊に満たし、聖霊の力を与えてください。地の果てまでも託された宣教の言葉を宣べ伝えることができますように、力を与えてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。  アーメン

文:関真士


 
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