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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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 マタイの福音書27章の1節の始まりは、祭司長達と民の長老達全てが イエス様を死刑にする相談する場面から始まります。正にイエス様の苦難の道がこれから始まることを暗示していると思います。私達もそう感じることが出来るのではないでしょうか。とうとうイエス様は縛られて、彼らに捕らわれてしまいます。それは銀貨30枚を受け取ったユダの裏切りから始まったのです。ユダは自分がイエス様を罪に定めた事を知り、後悔して銀貨30枚を彼等に返そうとしたが、既に遅し自ら首を吊ったのです。彼等は返された銀貨で、陶器師の畑を買い旅人達の墓にしたのです。後にその地は血の代価と呼ばれるようになります。これは預言者エレミヤが言われたことが成就するためでした。


 このマタイの27章は 

  • ユダの返金と「血の畑」1〜10

  • ピラトへの引き渡しと裁判 11〜26

  • 十字架での侮辱と苦しみ 27〜44

  • イエス様の死と奇跡 45〜54

  • 墓に奉られる 55〜58

 この章は イエス様の受難から復活までの重要な転換点であり、信仰者にとって 罪と悔い信仰と希望のテーマを強く示しています。


祈り

天の愛ある偉大な御父様

 あなたの一人子のイエス様を私達の罪のために、また罪から自由にしてくださるためにお遣わしくださいました。イエス様は私達のために最大の苦難を受けられ、十字架で亡くなられましたが、私はこのようなイエス様から私は離れてしまいます。なんて罪深いのでしょうか。どうかこのような私をお許しください。イエスと一緒に歩かせて歩かせてください。

この祈りをイエス様の御名前によりお祈りします。アーメン

                   カツエ カーチ


 

『カヤパ大祭司』


 ペテロの鶏が鳴く前に、三度あなたはわたしを知らないということから、エルサレム旅行では、その記念教会、鶏鳴教会は、大祭司カヤパの官邸の跡に建てられています。ここの中庭で、ペテロがそんな人は知らない、嘘ならのろわれてもよいと誓ってしまったわけです。 主イエスが捕まったゲツセマネから、おおよそ1.5キロほど離れた丘にあるのですが、主が捕まってから明け方になるまで、このカヤパ邸の地下にある竪穴の洞窟、昔は食料や水を貯めていたようです、ここに恐らく縛られてしばらく閉じ込められていたと言われています。


 31節「そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、今夜わたしにつまずきます。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散らされる』と書いてあるからです。」主イエスは、ただ一人このカヤパ邸の地下牢のような場所で、弟子達を失い、ひとりぼっちでいたことかと思うのです。この26章は、主イエスの十字架に向かう寸前の話で、最後の晩餐からゲツセマネでの祈り、主は自分が十字架につけられるために引き渡されると預言されていました重要な場面です。


 聖書には書かれておりませんが、主イエスがこのカヤパ邸の地下におられたと言われる場所を訪ねた時のことです。なんだか2千年前の主イエスが居られた空間に自分がいると思っただけで、鳥肌がたちましたが、ここで主イエスは何を一人で祈られていたのかと想像したのです。十字架にかかることが父なる神のみこころであることは、すでにご存知で、それに伴う肉体の苦痛を耐えられるようにと考えられたのかもしれませんが、自分は恐らく、十字架のことば「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分で何をしているのかが分かっていないのです。」と祈られたのではないかと思うのです。ここに自分が訪ねたカヤパ邸の地下での様子添付します。




 もしも、イエスを捕えに来たしもべにペテロが剣を抜いて耳を切り落とした時に、その耳を癒されなかったら、きっとペテロもイエスと一緒に捕まっていたことでしょう、しかしそれは主の望んでおられたことではなかったのです。またイスカリオーテのユダの裏切りがなければ、過越の祭りに神の子羊、献げ物としての十字架は実現しませんし、主イエスが多くの御使いを呼び出して、奇跡を起こしてローマ軍や祭司たちから救い出されたとしたら、贖いの十字架もありません。十字架教であるキリスト教も生まれてこなかったのです。父なる神は、サタンをも利用されたというか、悪の力も使われて、主の十字架を過越しの祭りのタイミングで実施されたことは、まことに主の意図していたことが読み取れます。


祈り

感謝します。主の捧げられた十字架によって私たちの罪が贖われたことを理解できますことに感謝です。どうかひとりでも多くの人に、この福音を伝えられますように。 アーメン 

文: 森 宗孝


 

『羊とやぎ』


 天の御国を主が、またもたとえ話で説明をされている箇所です。最初にでてきます十人の娘たち、五人は油を切らしてしまって、さいごには婚礼の宴、天の御国に入れない。次に良いしもべ、自分に渡されたタレントを増やす、自分の賜物をよく使ったしもべと、地の中に隠して賜物を使わなかった悪いしもべのたとえ話ですが、要点は、どちらも両方とも主を慕う者たちを表していると思うのです。油、つまり聖霊を切らしてしまったクリスチャン、自分に与えられた賜物を使わなかったクリスチャンと考えられるのではないかと理解しました。そういう意味では、本物のクリスチャンと偽物のクリスチャンと言っても良いかもしれません。ここで心配になるのは、聖霊を切らしたクリスチャン、自分の賜物をこの地で主のために使わずにいるクリスチャンは、御国に入ることが出来なくなるのかという疑問です。


 私たちは主イエスを信じて、愛する事によってすでに、今までの罪が赦され、これから起こしてしまう罪からをも赦されるという、神との和解をすでに頂いたはずではなかったのか、それでも天の御国に入れない可能性もあるのかという素朴な疑問にぶつかるのです。同時に本物のクリスチャンとはどういう人のことがということも考えさせられました。ヤコブの手紙2:14「私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立つでしょうか。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。」ですから、主イエスを愛する者は、主イエスのように愛する者としての行いが自然に発生するということでしょうか。 自分自身に与えられた聖霊を切らさないように、聖霊のうめきと共に、求められている行いを、それが大きなことであれ、小さいことであれ従うこと、それが自分に与えられた賜物を使うことに繋がるのかもしれません。


 ここ33節にあります「羊を自分の右に、やぎを左に置きます。」というのは、レビ記の16章の贖罪の日でのささげ物の話に似ている気がします。レビ記では雄やぎ二匹のうち一匹は主への罪のきよめとして全勝のささげ物となり、もう一匹は荒野に追いやられるとされています。そうしてエゼキエル書34:17になると今度は、神が羊と羊の間、雄羊と雄やぎの間をさばくともあります。 それに応答するように、このマタイでは、羊は祝された者、やぎは呪われた者として、きっと終末の裁きが描かれていることに違いがあるのでしょう。主の右におかれた本物のクリスチャンは、知らず知らずのうちに空腹の者を助け、弱い者に手を差し伸べています。しかし、左のやぎは、偽のクリスチャンでしょうか、マタイ7:21 「私に向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」とはっきりと本物の信者と偽物の信者を区別されていることが理解できます。


祈り

どうか自分自身が、天の父のみこころを理解して、知ることによって、みこころを行う者と主イエスによって変えて頂けますように、主の右の羊として従順に主に従うことができますように。 アーメン

文:森 宗孝


 
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