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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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 前章において、民は神との契約の印を結びました。着々と再建された神殿を中心に神の都エルサレムの再建も進んでいきます。

 建物やインフラの整備も大事ですが、それ以上に神との正しい関係を持ち、神殿における礼拝祭儀を守り、神の律法を守り従うことが大事なことでした。

 

 この11章では、エルサレムに住む者をくじで選んだことが記されています。

「民の指導者たちはエルサレムに住んでいたが、それ以外の民はくじを引いて、十人のうちから一人ずつ、聖なる都エルサレムに来て住むようにし、あとの九人を他の町々に住まわせた。(1)

 民は、それぞれの土地に住んでいましたから、エルサレムを街として再建するためには、そこに住む人たちが必要です。そこで民の十分の一をそのために選んだのです。しかし、くじで選ばれたことは当人にとって決して喜ばしいことではなかったようです。大きな負担がかかります。ある意味強制移住なわけですから。


 しかし、その中でも自分から進んで移住した人もいました。

「民は、自分から進んでエルサレムに住もうとする人々をみな祝福した。」(2)

 

 神の働きのために、自ら進んで参加する者がいたということです。今の時代、教会が信徒の方々に強制的に奉仕させるということはないでしょう。もしあったら、それは大問題です。

 しかし、実際の状況によっては、奉仕せざるを得ないという現状もあるでしょう。奉仕者が足りない状況では、やりたくないのにやらざるを得ないという事もあるかもしれません。

 しかし、その中にあっても「自分から進んで」という人がいるということは、とても貴重なことです。


 奉仕は、決して強制されてはならず、出来なことはNOと断ることも大切なことです。ホノルル教会は、NOという選択肢が認められている教会です。

 しかし、教会が機能していくためには、どうしても必要な奉仕というものもあります。そのような現状の中で、教会の主は「自分から進んで」という心を持った奉仕者を必ず起こしてくださいます。

  

 あなたが、その一人かもしれません。

 

 天の父なる神さま

 教会の働きにおいて、様々な奉仕が必要です。どうぞ、自分から進んで、喜びと感謝をもって事にあたる人々が起こされますように。そして、主の働きが進んでいきますように、教会を守り導いてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン                                          文:関真士

『祝福とのろい』


 モーセを通して与えられた律法を守るために、契約文書に印を押した者たちの名前が列挙して出てくる。ネヘミア・エルサレム総督のもとに誓いあった仲間、祭司たち、レビ人、門衛、歌い手、宮のしもべ、異邦人の妻と別れて、律法に従う誓いをたてた家族たちであった。


 実に聖書の大きなテーマは契約なのです。旧約聖書や新約聖書と私たちは言いますが、この旧約の約は、翻訳の訳ではなくて、契約の約なのです。すこし10章から離れて、契約の事を考えてみましょう。日本人は契約に慣れていませんので、あまり細かく考えたりしませんが、仕事をするにも雇用契約があり、保険をかけるにも、車を買うにも、ローンの契約が必要なことはご存知であるように、聖書も契約の世界なのです。そして、契約には条件付きの契約と無条件契約があります。例えばエデンの園でアダムにはアダム契約が与えられました。産めよ。増えよ。地を満たせとの祝福と同時に、園の中央にある善悪の木からは食べてはいけない、食べると死ぬという条件付き契約でしたが、アダムとエバは、この条件を破ってしまいました。ですからアダム契約は破棄されたのです。それに対して、アブラハム契約は無条件契約です。アブラハムとその子孫イスラエルに土地を与え、すべての民族の祝福の源となるという永遠の無条件契約となります。これはイスラエル民族が、主に背く罪を犯しても、主の目に叶わない偶像を崇めたりしても、それに対する罰は下されるものの、アブラハム契約そのものは、神からの一方的というか無条件契約なので、いまでも継続しているのです。


 さらにモーセとの契約、エジプトで奴隷となった民が救い出され、律法によってきよめられて、聖なる民となる、聖別の契約ですが、この祝福と同時に呪いの契約でもあります。なぜならば律法を守れば祝福され、守らなければ祝福を失い、呪いと災いを受けるという、祝福か呪いかの条件付き契約と言って良いかもしれません。


 しかし、契約(Contract)というイメージは、紙に書かれてサインをする重々しさを想像させますが、聖書の契約(Covenant)とは、実際にはむしろ父が子に愛を注ぐように、夫婦が神の前で誓い合うように、愛で結ばれる契約なのです。


 さて10章に戻ります、29節抜粋「主のすべての命令、その定めと掟を守り行うという、次のような、のろいの誓いに加わった。」ネヘミアもこのエルサレムの民も律法を守ろうと必死に努力しています。ささげ物規定、安息日規定、例祭を守り、神の宮をなおざりにはしない。捕囚を経験した民の悔い改めであり、この律法を守らなければ、呪いと災いをまた受けることになってしまうという悔い改めからの行為でありました。


 ここまで読んで、子供の頃の囃し歌「うそついたら、針10本飲む〜よ」を思い起こしました。なんとか律法を守ろうとする、当然な気持ちであったろうと思いますが、これがやがて律法主義となって、パリサイ派、律法学者とつながってしまうのですね。私たち、現代の信者たちも、教会での礼拝、献金、奉仕にこだわるあまりに、父なる神からの愛を忘れてしまってはいないでしょうか。


祈り

 父なる我が神よ、放蕩息子である自分を赦し、愛をいつまでも注いでくださっている事に感謝します。聖書にある契約は、父の愛の表現であることに感謝致します。アーメン 

文: 森 宗孝


『罪と咎の告白』


 イスラエルの子らは断食し、自分達と先祖の過ち(咎)や神から離れていた(罪)を告白して主を礼拝するようになりました。その告白内容が9章には記されています。先祖の咎とは、神が、人類を救い出すために、まずは人の中から、たった一人アブラハムを選び、そこから聖なる民族、大いなる子孫であるイスラエル民族をもって人類を救おうとされている。私たちが考えもしない方法、しかも気の遠くなる帰還を経て、神の民を創造される歴史から、その民がいかにして、エジプトで奴隷となり、その民を解放為れた事、聖なる民を守りながら、荒野で訓練するために、主なる神が愛する民と共に過ごすために、天幕を造り、その至聖所に在って、昼は雲の柱、夜は火の柱となって砂漠にいる民を守られ、民の行くべき道を示された事、民を賄うために、朝にはマナを与え、岩から水を出し民を養ったにもかかわらず、自分たちの、先祖たちが傲慢になってしまい、主の命令に従わなかった事実。


 40年間の荒野の生活を守った後に、約束のカナンの地を与えてくださったにもかかわらず、先祖たちが主にさからって、律法をうしろに投げ捨て、預言者たちを殺してしまう罪を犯したために、敵の手に渡されて苦しんだ事、その苦難の嘆きを聞いてくださり救って下さったにもかかわらず、また先祖たちが悪事に染まってしまった事。


 預言者を通じて、イスラエルの民を戒められたけれども、民が耳を傾けなかったので、地のもろもろの民の手に先祖たちを渡された事、しかし、主のあわれみにより、先祖たちを滅ぼすことなく、見捨てなかった事。私たちの罪のために、大きな苦しみの中にいることを告白している9章です。


 歴史は繰り返される、果たして現代のイスラエルは、どうでしょうか? 神の民として、人類救済の計画を実行すべき主の道を歩んでいるのでしょうか。隣国との闘争を、自分達の武力にかけて解決しようとする姿は、神の民の姿にはほど遠いのかもしれません。しかし、同時に自分が、彼らの立場にいて、周りは石油で資金豊かなアラブ民族に囲まれて、自分の家族が誘拐されてしまったら..と考えると、果たして主なる神に頼る代わりに、自分の力で防衛しようと思わないだろうか。それにしても、何万人もの殺害をもっても、復讐は復讐しか招かないことを私たちは知っています。ただ、傍観者として簡単にイスラエルを非難できる立場にいない事も事実です。しかしながら、これらの現状は、やがて聖書にある終わりの日に近づいていることの現れであることは、間違いないようです。


祈り

主よ、どうかあなたの民、イスラエルがこの9章にあるように、悔い改めを経験して、主イエスを神の子として受け入れる日が来ますように。アーメン

文: 森 宗孝


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