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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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「主はこう言われる。『この都は、必ず、バビロンの王の軍勢の手に渡される。彼はこれを攻め取る。』そこで、首長たちは王に言った。『どうか、あの男を死刑にしてください。彼はこのように、こんなことばを皆に語り、この都に残っている戦士や民全体の士気をくじいているからです。実にあの男は、この民のために、平安ではなくわざわいを求めているのです。』するとゼデキヤ王は言った。『見よ、彼はあなたがたの手の中にある。王は、あなたがたに逆らっては何もできない。』そこで彼らはエレミヤを捕らえ、監視の庭にある王子マルキヤの穴に投げ込んだ。彼らはエレミヤを綱でおろしたが、穴の中には水がなく、あるのは泥だったので、エレミヤは泥の中に沈んだ。」(3-6)


 神のことばを語るエレミヤは、民に迫害されています。確かにいのちをかけてバビロン軍と戦っている者たちにとっては、敗けを語るエレミヤのことばは受け入れ難かったでしょう。それでもエレミヤは、神のことばを語り続けました。


 この時代、偽預言者が多くいたようです。彼らは「平安」を語りました。この戦いに必ず勝利すると「希望」を語りました。しかし、彼らが語らなかったのは「罪の悔い改め」です。真の平安と希望は、罪の悔い改めの後に来るということを、彼らは語りませんでした。エレミヤも、神の永遠の愛、真実の愛、回復の希望を語ります。ただし、エレミヤは、罪の悔い改めも語ります。それが真の預言者と偽預言者との違いです。


 現代においては、愛、赦し、平和、希望、などなど耳に優しいことばが語られます。聖書も同じことを語っています。ただ異なるのは、聖書のメッセージは罪の悔い改めを語ることです。これなくして、真の愛も赦しも、平和も希望もありません。


 イエスの十字架こそ、この罪を取り除き、私たちの真の神の愛を示してくれるものです。私たちは、これからも真っすぐに十字架のメッセージを語っていきたいと思います。


天の父なる神さま

 聖書のメッセージは、時に私たちの耳に優しく、時に耳に痛く刺さります。しかし、どれもあなたからのメッセージです。私たちがあなたの御声をより好みすることなく、そのまま聴くことができますように、私たちの耳を開いてください。  

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。  アーメン

文:関真士


 

『書記ヨナタンの牢屋』


 この37章に描かれている15節にある、エレミアは入れられたヨナタンの牢屋とは、どういう所であったのか。ヨナタンは王室の高官の書記官で、エレミア書を筆記した書記バルクとは正反対で、エレミアを敵視した者でした。 実はイスラエル旅行に行った時に、主イエスが大祭司カヤパの邸宅の地下の牢屋に入れられていたのですが、その高官としてのカヤパ邸宅の庭で、シモン・ペテロに、人々が「あなたもあの人のでしではないだろうね」と問われて、鶏が鳴く前に三度、主イエスを否定したので、この場所に鶏鳴教会として現代では、ローマ・カソリック教会が建っています。そこから、見学者としてカヤパ邸に入り、地下牢として使われていた、垂直に掘られた穴で、昔は水を貯めておく為の貯水槽として、使われていたのです。 エレミアの時代とは異なりますが、構造は恐らく、ヨナタンの牢と同じで、そこに縛られて下されると、身動きできずに、底には泥が溜まっていたりしたそうです。 大祭司カヤパは、主イエスを捕えたものの、民衆が助け出しに来るのではないかと恐れていたと言われています。このような貯水槽の竪穴に、その昔エレミアも入れられていたと想像するわけです。涙の預言者エレミアと同じような境遇であった主イエスが同じように地下牢に入れられたことは偶然ではないと思われます。


 エレミアはゼデキヤ王に対して、エジプトは当てにならない、やがてカルディア人(バビロン)によってエルサレムは攻め取られ、焼かれると主のことばを伝えます。それで、エレミアはバビロン親派と見なされて、ユダの首長たちや体制派から迫害を受けるのです。しかも、ひそかに訪ねてきたゼデキア王に、はっきりと「あなたはバビロンの王の手に渡されます」と伝えるのでした。再び、地下牢に入れられたエレミアは、どのような気持ちで祈っていたのでしょうか。主のみことばを取り繋いでも、誰も受け入れてくれないばかりか、牢獄にまで入れられて、この迫害はいつまで続くのでしょうかと主に不満をぶつけたでしょう。自分の苦しみをそのまま、投げかけながらも、ユダ王国と聖なる民の救いも祈ったのかもしれません。


 自分がカヤパ邸の地下牢を訪ねた時、しばらくの間そこで黙想することができました。いったい、主イエスは、この牢に身動きできずに、少なくとも夜明けまで暗闇の中におられたわけですが、その時に主イエスは、なんと祈られたのだろうかと思ったのです。主イエスは十字架の上で「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、自分で何をしているのかが分かっていないのです。」と祈られたのですが、この聖書の言葉は文法的に、「言った」とされているのはギリシャ語の「未完了過去」という日本語には、ない形式で表されていて、これは、何度も繰り返して、イエスが言ったということを表しているのです。


 ですから、自分はカヤパ邸で捕えられている、暗闇の中でも、主イエスは、エレミアのように、なぜこのようなことが自分の身に起こるのかと言うのではなく、十字架の時のように、ここでも「父よ。彼らをお赦しください」と祈ったに違いないと、瞑想するうちにふつふつと、心に浮かんできたのでした。


祈り

エレミアの牢獄入りと主イエスのカヤパ邸の牢を比べて、考えさせられたことに感謝いたします。イエスと同じ区間を味わうことができました経験に、心から感謝いたします。アーメン 

文:森 宗孝


 

『読み聞かせよ』


 南王国ユダの運命も風前のともしびでの出来事です。主の目に悪い王であったエホヤキム王は、主によってエレミアのことばを筆記した書記バルクが持ち込んだ巻物、エレミア書を無視して、火にくべてしまいます。ユダ王国の首長たちがエレミア書を恐れおののき聞いて、エホヤキム王に伝えようと持ってきた、主のことばですが、悪王エホヤキムは、悔い改めをするどころか、彼もかれの部下も無視して、エレミア書を、こともあろうが燃やしてしまうのです。 これは紀元前624年の今の太陽暦で11月か12月頃のことです。


 もともと、このユダヤ暦の第九の月は、ユダヤの3大祭りでもある、大贖罪日の月です。エルサレムのすべての民に断食が布告されて、書記バルクが、主が託されたエレミアのことばを読んで聞かせたわけですが、残念ながら国王とその部下たちは聞く耳をもっていなかったのでした。


 これと正反対に、もうすでに亡くなっていた善王ヨシアの場合は、律法の書のことばを聞いたとき、自分の衣を引き裂いた。と列王記第二22節には記されていて、そこからユダ王国の宗教改革が始まり、南ユダ王国は、北王国に比べて、延命したのですが、このエホヤキム王の時代には、主のことばは無視されてしまったのです。ですから主の我慢切れの裁きが、南ユダ王国にも、バビロン帝国を遣わして滅ぼされてしまいます。


 この36章には、この時期の南ユダ王国の様子と、書記バルクがもう一度、エレミア書を書き直す様子が描かれているのですが、自分がここから連想したのは、この第九の月である大贖罪日のことでした。ユダヤ民族の3大祭りは、まず春の祭り、過越しの祭りで、皆さんもこの時に主イエスが聖なるいけにえの子羊として十字架にかかられました。その後の5旬節(ペンテコステ、七週の祭り)ここで、聖霊降誕がありました。最後に秋祭りである、仮庵の祭りがありますが、それは月の初めのラッパの祭りから始まって、贖罪日 ヨミ・キプール、そして仮庵の祭りとつながっています。仮庵の祭りは、神との喜びの祭りで、音楽あり歌ありの祭りですが、その前にくるのが悔い改めと罪の赦しなのです。


 何を言いたいかといいますと、主イエスの初臨がイスラエルの祭りと連動していることを思うと、主の再臨は秋祭りと連動していると想像するのです、主の再臨はラッパと共に来られる(Iテサロニケ4章16節「すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下ってこられます。」)このようにラッパの祭りでの悔い改めがあり、贖罪日の罪の赦しがなされてから、再臨の主イエスとの再会、喜びの祭りとなってゆくことが、聖書によって約束されていると考えております。


祈り

主の日が近づいているように思うのは自分一人ではないと思いますが、使徒パウロの時代も、ローマの迫害などが続き、主の日が間近だと考えておりましたのが2千年前のことですから、いつに再臨があるか、患難時代はどうかと心配するよりも、いつ主が戻って来られても良いように、心を主に向け続けることができますように。 アーメン 

文:森 宗孝


 
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