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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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  • hccnichigo
  • 4 時間前

「封印のように、私をあなたの胸に、封印のように、あなたの腕に押印してください。愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しいからです。その炎は火の炎、すさまじい炎です。」6節


 強い夫婦の愛が描かれています。これほどの献身さがあると夫婦の愛、結婚愛は壊れないのではないかと思います。同時に私たちも神との霊的な関係がこのように強くあれば決して信仰が揺るがされることはないということにつながっていきます。「封印」ということに目が留まりました。私たちもキリストにあって救いの福音を信じることによって証印を押されたものである。この証印を押されたものはだれでも天の御国への片道切符が約束されています。


 さらに彼女の愛の発言は続きます。「愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しいからです。」ここでいう「ねたみ」は罪の中の一つではなく、愛する人が離れていくと激しく燃え立つということだと言われています。非常に情熱的な発言だと思います。聖書のなかにも「ねたむ神」と書かれている箇所があります。


「あなたの神、主であるわたしは、ねたみの神。」出エジプト記20:5(抜粋)


 そして、7節で語っている愛。

「大水もその愛を 消すことができません。」

つまり、愛は、なにものにも破壊することはできない不滅なものだと言われています。これは、私たちのために十字架で死んでくださったイエス様の愛でもあります。


「もし、人が愛を得ようとして 自分の財産をことごとく与えたなら、その人はただの蔑みをうけるだけです。」7節


 愛は決して富に変えられるものではないということです。これらのことは、すべて私たちとイエス様の関係につながってきます。 愛する天の父なる神さま。今日の御言葉を心から感謝します。私たちはあなたからねたむほどに愛されて、その愛は不滅なもので、なにものにも変えられないことをこれからも心にしっかりと受け入れていくことができますように導いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


 

ああ、人を喜ばせる愛よ。あなたはなんと美しく、麗しいことよ。(6)


 花婿の花嫁に対する愛は1章から一貫してずっと変わらず、熱烈な愛を語っている。花嫁は最初の頃は、花婿から愛の言葉を受けながらも自分の外見を気にしていたり、自分も花婿への愛を表現していても、自分の都合で花婿を拒んで、その後慌てて探し回ってみたりと、愛に対して受け身で、不安定な印象だった。


 そんな花嫁に、それでも花婿は花嫁の愛は、美しい、麗しいと心の底から喜んでいる。


 今私は孫との時間を過ごしている。叩かれても、拒まれても孫への愛は変わらない。その孫が、自分の大好きなクラッカーを1つどうぞと分けてくれるだけで、心がキュンとなる。彼の愛情表現はどんな小さなものでも嬉しい。彼の存在自体が私にとっての喜びなのだから。花婿にとって花嫁の存在は、そんな感じなのかなと想像する。


私は、私の愛する方のもの。あの方は私を恋い慕う。(10)


 不安定だった花嫁の心は、この7章では、花婿の変わらぬ愛を確信を持って受け入れ、憩い、とても安心している印象だ。花婿の愛に依存していた状態から、自分が花婿を愛しているからその愛を形にしたい、花婿に捧げたいのだという、もっと能動的な愛へと変えられていることを感じる。その想いを積極的に花婿に伝えている花嫁の姿は、強く大胆だ。


 雅歌の花婿花嫁はイエス様と私たち信徒、教会を表しているとよく言われる。


 イエス様は私たちの不完全な愛をも美しい、麗しいと喜んでくださっているということなのだろう。つい、私などはできてない部分が気になって、本当にこんな状態で喜こばれてるのかと思ってしまうことがあるが、何かをしてるからとか、何かができるから愛されているのではなく、私たち信徒のその存在そのものを神様は愛し、喜んでくださっているんだということを思わされた。また、私たちの小さな愛の働き一つ一つを喜んでくださる方なのだ。神様との愛の関係の中で、私たちの愛の形も、ますますこの花嫁のように変えられていくのだろうと思わされた。


愛する天のお父様、今日もあなたの愛の眼差しの中に生かされていることを感謝いたします。日々あなたの愛から活力を得させて下さい。あなたの御心のままに私の心が変えられていきますように。イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン


 

 先の5章の終わり辺りで、花嫁が花婿を突然見失った時、エルサレムの娘たちが「あなたの愛する方は、ほかの愛人より何がすぐれているのですか。」(5:9)と花嫁に質問をします。それに対して花嫁は、花婿がどんなに素晴らしい方であるかと褒めたたえ、はっきりと「これが私の愛する方、これが私の連れ合いです。」(5:16)と答えます。


 さて6章はその続きです。最初花嫁がなぜそんなに必死になって花婿を捜すのか理解できなかったイスラエルの娘たちさえも、上記の花嫁の説明を聞いて、心動かされて、いなくなった花婿を「いっしょに捜し」たいと思うようになったのです。


 ここに私たちのなすべき伝道のエッセンスが感じられます。私たちがイエス様を深く愛し、イエス様が私たちを深く愛していてくださるという関係にある時、他の人々に必然的にイエス様のことを、花嫁が花婿について語ったように、心からの愛の中から、確信をもって語らずにはおられなくなるのではないでしょうか。そしてイエス様を心から褒めたたえ礼拝するとき、それを見るノンクリスチャンでも、イエス様のことを知りたい、近づきたいと思うようになるのではないでしょうか。


 イエス様の花嫁である教会の一人一人が、そのような花嫁として、花婿であるイエス様を深く愛し褒めたたえることができれば、この世はもっともっとイエス様を知るようになるのではないでしょうか。


 そして花嫁が花婿を自分の庭で見つけた時、彼女は告白しました「私は、私の愛する方のもの。私の愛する方は私のもの。」(6:3)これと同じようなことを彼女は2章16節でも言っています。「私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの。」ここに花嫁の花婿への愛の成長を見ます。二つを照らし合わせると、順序が違います。以前は花婿は「私のもの」、今は私が「私の愛する方のもの」です。


 以前は「私」中心でした。相手に対して要求ばかりを並べて、自分を満たしてくれること、それが愛であると勘違いしていました。ところが、花婿を見失うという経験を通して、花婿に対する愛が深くなり、自己中心の愛が、相手を中心にして相手に服従する愛へと変わりました。


 私たちはキリストの花嫁として、主よ、いつもそばにいてください、いつも愛していてください、慰めてください、励ましてください、私の欲しいものをすぐ与えてくださいなど、イエス様に対して自分勝手な要求ばかり並べ立てていました。それがイエス様との愛の関係であると信じていました。しかし自分は花婿であるイエス様のもの、「あなたのもの」であると自覚した時、そこに真実の祝福と喜びを感じるのだと思います。


恵み深い天のお父さま、今日の御言葉を感謝します。「私は、私の愛する方のもの。私の愛する方は私のもの。」というみことばを心にとめて生きていきたいと思います。どうぞ私たちをあなたのご計画の通りお導きください。アーメン


 
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