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2026年8月9日 ヨハネの黙示録21章

  • hccnichigo
  • 2 日前
  • 読了時間: 2分

『新天新地の到来』


 ヨハネの黙示録も終わりをむかえようとしています。何度も読んできて思わされることは、クリスチャンになって本当に良かったと感謝の気持ちでいっぱいです。それと同時にまだ救われていない人々に福音のしらせを伝えることが示されます。


 都の神殿とは全能の神である主と子羊である。そこには、照らす太陽も月も必要とせず、神の栄光が都を照らし、子羊が都の明かりだからである。その都の門は一日中、決して閉じられない。そこには夜がないからである。そして、そこに入ることのできるのは、子羊のいのちの書に記されている者たちだけである。と述べられています。


 さらに、「神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。」3節


 「神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」4節


 愛する娘が召されて今年で10年になりました。今年になってせき立てられるように彼女の骨を散骨した北海道の富田ファームに心が動かされた。思いっきり出かけて行きました。濃い紫色のラベンダーの花は満開でとてもこの世のものと思えなかった。


 今日の黙示録を読んでいくと悲しみから喜びに変えられていく思いでした。夜のない神の栄光が都を照らしているところ、神が涙を拭い取ってくださり、もう死もなく、辛い悲しみないところに私も行けると言うことです。そしたら、愛する娘に会えると言うことです。待っていてくれる人がいるという確信をしっかりと持つことができました。


 召された娘との地上での別れはとても受け入れがたいもので、寂しさと悲しみの中にいて暗闇から抜け出ることができませんでした。地上での別れは厳然たる事実であり、遺された者は寂しさを覚えます。この黙示録の聖句が私に事実を受け止めることができ、永遠の希望に目を向けることができました。娘は既に神さまのもとで安らいでおられる事を、私もまた同じ場所に行けるという約束を信じてこの地上生涯を歩んでいきたいと思うとき、悲しみの涙が喜び、希望に変えられたことです。


 愛する天の父なる神さま。御名をほめたたえます。今日の聖書のみことばを心から感謝します。私たちも新天新地を目指して、残されたこの地上生涯をあなたのために私たちを用いらせて下さい。感謝して主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン


 
 
 

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