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2026年8月8日 ヨハネの黙示録20章

hccnichigo
8月8日
読了時間: 2分

 千年王国と聞くと、この1000年がいつ始まるのか、再臨との順番はどうなるのかなど、時系列が気になる私がいます。でも今回20章を読んでいて、私の心に一番残ったのは、「いのちの書」と「自分の行いに応じてさばかれた」という言葉でした。


「また私は、死んだ人々が大きい者も小さい者も御座の前に立っているのを見た。数々の書物が開かれた。書物がもう一つ開かれたが、それはいのちの書であった。死んだ者たちは、これらの書物に書かれていることにしたがい、自分の行いに応じてさばかれた。」(12)


「いのちの書に記されていない者はみな、火の池に投げ込まれた。」(15)


 この箇所を読んで、私は「自分の名前はいのちの書に記されているだろうか」と、ふと考えてしまいました。


 私たちは行いによって救われるのではなく、イエス・キリストを信じる信仰による神さまの恵みによって救われます。しかし同時に、神さまは私たちの日々の歩みをすべてご覧になっておられます。


 私は日本に帰ってから、総合病院のERの受付として働いています。人生には必ず終わりが来るという現実を、ときどき目の当たりにします。だからこそ、いつか神さまの御前に立つ日が来るという聖書の言葉は、決して遠い話には感じられません。


 その日が来たとき、救われた者として、神さまの御前に立つとき、私が誇れるものは何だろうか。自分の実績でも頑張りでもなく、ただただイエス様が私を救ってくださったという恵みだけの自分でいたいなと思います。そして、その恵みに生かされてきた一日一日が、神さまの前で意味のある歩みであったなら、本当に幸いです。


 また、自分の名前はいのちの書に記されているだろうかという自分の問いかけの答えは、私の行いや努力ではなく、十字架で私のために死んでくださり、よみがえられたイエス・キリストにあります。その約束を信頼しながら、今日も主を仰ぎ見て、与えられた場所で恵みに感謝して歩んでいきたいと思います。


愛する天のお父さま

 いつかあなたの御前に立つ日が来ることを覚えながら、恐れではなく希望を持って毎日を歩ませてください。私の行いや言葉、そして心が、あなたに喜ばれるものでありますように。そして、私の救いは私の力ではなく、イエス・キリストの十字架の恵みにあることを、いつも忘れずに歩ませてください。

 イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン


 
 
 

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