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2026年6月2日 エゼキエル書21章

  • hccnichigo
  • 2 時間前
  • 読了時間: 3分

『人の子』


 ここでは、エゼキエルに向かって主のことばがあり、その中でも特に、この章で何度もくりかえされている、「人の子」とはエゼキエル自身を指していることばなのです、それはエゼキエル書全体では、実に90回以上も「人の子」と呼ばれ続けているのです。それで、主イエスもご自身を「人の子」と呼んでおられたことを思い起こしました。


マタイ9:6「しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るためにー。」そう言って、それから中風の人に「起きて寝床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた」


 この二人に共通しているのは、預言者であること。主のことばを預かって、二人とも将来に起こる主の裁きを預言されています。エゼキエルには、これからイスラエルに降り下されるバビロンの剣を預言しながら、同時にバビロンの王が、その後、自分の咎を思い起こされることも暗示されています。イスラエルの民が、偶像礼拝、救い主の戒めに背を向けたことに対する怒りは激しく、31節「わたしはおまえの上にわたしの憤りを注ぎ、激しい怒りの火を吹きつけ、滅ぼすことにたけた残忍な者たちの手におまえを渡す。」とバビロンを使ってイスラエルを滅ぼすと預言されているのです。


 エゼキエルに対して、人の子と言われたのは、あなたは土から生まれた人間に過ぎないが、主のことばを託された預言者であるという意味で、弱い者でありながら、創造主である神のことばを預かった、人の子という意味合いが多いわけですが、主イエス自身が、ご自分を救い主メシアと呼ばれるのを避けて、自らを人の子と語られたのは、このマタイにもありますように、人の子として創造主から罪を赦す権威を与えられている者ということもありますが、同時にやがて苦難を受けることが定められている人の子という意味も隠されているでしょう。そして、人の子としてのもう一つの側面、これはイザヤ書ではなく、ダニエル書7:13~14抜粋「人の子のような方が天の雲とともに来られた。この方に主権と栄誉と国が与えられ、すべての者たちはこの方に仕えることになった」というやがて訪れる千年王国、再臨される人の子ということにも繋がることになるわけです。ですから、すべてを含めて、主イエスが旧約聖書を代表する意味で、人の子とご自分を表現されたのではないでしょうか。


 実に、主の戒めに背を向けてしまったイスラエル民族の姿は、現代の世界の様子をも予表しているように思うのです、御子イエスによっての新しい契約、心への割礼を忘れ去って、神よりも、自分の富、幸せ、反映や権力を求める世間となりつつある私たちへの警告がここにもあるのではないでしょうか。やがて主の裁きがくだされます。今度はバビロンではなく、地上を治めるサタンによって、この地の殺戮が始まるのでしょうか。 現代では、そのサタンの働きをかろうじて引き止めている力、人の子、主イエスを土台とした、人の子クリスチャンたち、教会があります。


IIテサロニケ2:6~7「不法の者がその定められた時に現れるようにと、今はその者を引き止めているものがあることを、あなたがたは知っています。不法の秘密はすでに働いています。ただし、秘密であるのは、今引き止めている者が取り除かれる時までのことです。


 私たち信者はやがて、携挙されて天に引き上げられてゆきますが、その時には不法の者、サタンが地上で暴れ出す、患難時代が訪れるということを聖書が語っているのです。


祈り

どうか私たちが、主イエスを常に土台とした、堅固な信仰に立つことができますように、この世の不法な者の働きをおさえ、主の御霊のあるところには、不法な働きからの自由があることを自覚して、福音を伝え続けることができますように導きください。 アーメン 

文:森 宗孝


 
 
 

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