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2026年6月1日 エゼキエル書20章

  • hccnichigo
  • 1 日前
  • 読了時間: 3分

『生木と枯れ木』


 ルカの福音書23章31節に、主イエスがこのエゼキエル20章を踏まえて、語られた預言があるのですが、大変理解しづらい、たとえ話なのです。しかし、この場面は、主イエスが十字架に架けられる途中、身体は鞭打ちの刑で弱り果てて、担いでいた十字架を、ローマ兵が周囲の人からシモンというクレネ人を選んで、主イエスの代わりに十字架を担がせた場面に出てくる、苦難のしもべ主イエスのみことばなので、とても重要なのですが、自分もすっかり、こんなことばがあったことすら、忘れてしまったことばです。31節「生木にこのようなことが行われるなら、枯れ木には、いったい何が起こるでしょうか。」どうやら、この主のみことを理解するには、エゼキエル20章47節との比較が必要になるわけです。


 この47節「主のことばを聞け。神である主はこう言われる。見よ、わたしはおまえのうちに火をつける。その火はおまえのうちの、すべての生木とすべての枯れ木を焼き尽くす。その燃える炎は消されず、南から北までの面すべてが焼かれる。」これは神に背くイスラエルへのことばですが、どうじに将来の炎による裁きの預言と理解しても良いでしょう。そこで問題なのは、生木が何か、枯れ木は何かという解釈になります。


 エゼキエル書では、生木にかんする関連したことば17章にもあって、主が植えられた木、枝を伸ばし、実を結び、見事な杉の木となる、という表現から、神に背くイスラエルの民の中にも、主を信じる者たち、信仰者、もしくは残れる者(レムナント)と推測して良いのですが、一方 ルカの福音書で、主イエスの示す生木とは、残れる者というよりも、主のしもべでありながらも、苦しみを受けるイエス自身を指しているようです。主が育てあげた若枝である御子イエス自身が、見捨てられて、十字架の刑にかかるように苦難をうける生木であるならば、あっという間に燃えてしまう枯れ木、信心のない、神に背いている民、主を知っていると言いながらも罪を犯し続ける者たち、自分の利益を第一にして民衆を惑わすリーダーたち、これらは神の目から見ると、すでに生きた水、聖霊がかよっていない枯れ木同様と言っても間違いないと思います。 ですから、本当に信仰ある者が、苦難の火にあってしまうならば、枯れ木同様の主に背いた者たちは、主の裁きの炎に焼き尽くされてしまう、その火は消えることのない主の怒りの炎となるのですと、十字架に向かう主イエスは、自分の周りにいる民衆に訴えたのでしょう。


 事実、主イエスの十字架の後に、エルサレムはローマ軍によって包囲されて、紀元70年にエルサレムも、神殿も崩壊してしまうのです。しかし、長い期間のローマ軍からの包囲の途中、当時のローマ皇帝の死去によって、一時期、包囲が解かれる期間があったようです、その時に実は主イエスを信じるクリスチャンたちは、教えられていた通りに、山に逃げて救われたという事実もあったようですが、主イエスを十字架刑にかけ、未だ生き残っていた者たち、枯れ木の者たちは、すべてみじめな死に方をしたことでしょう。


 エゼキエル20章38節「あなたがたの中から、わたしに背く反逆者をより分ける。わたしは彼らをその寄留している地から導き出すが、彼らはイスラエルの地に入ることはできない。そのときあなたがたは、わたしが主であることを知る。 実にエルサレム崩壊の紀元70年から、数年間はユダヤ人は、エルサレム近辺に戻ってきて住もうとしたのですが、ローマ軍がユダヤ人定住を決定的に禁止して、離散の民となってゆきます。


祈り

いかに聖書のみことば、主の預言は完全に実現することを理解し、主への畏れと信頼が増してゆくことに感謝いたします。 アーメン 

文: 森 宗孝


 
 
 

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