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2026年6月26日 エゼキエル書45章

hccnichigo
6月26日
読了時間: 3分

「あなたがたがその地を相続地として、くじで分けるとき、その地の聖なる区域を奉納地として主にささげなければならない。その長さは二万五千キュビト、幅は一万キュビト。その周囲の全域は聖なる地である。」(45:1)


 この章を読むと、私の仕事の関係上、これから新しく未開の地域に於いて開発されていく都市計画に時々参与した時のことが思い浮かばされます。しかしその計画というのはすべて私たち人間の知識と考えに基礎を置いた計画です。ここでエゼキエルの預言を通して語られるまぼろしの計画というのは、神がイスラエルの民への霊的な望みに基づいた計画、現代風に言えば都市計画と言えるのではないでしょうか。その核心がこの45章の第一節で、語られていると思われます。


 まず神が与えてくださる相続地を「くじで分ける」とは、人間の考えや理論、又は社会的地位とか資産などのもつ権力によって左右されることなく、神のご計画、みこころに信頼を置いて、完全に主に委ねることだと思います。


 次に、この相続地をどのように管理するか、聖なる区域についての規定が示されています。この聖なる区域は、イスラエルの民の利のためではなく、奉納地として主にささげなければならない、そしてその周りの土地ははすべて聖なる土地として尊ばなければならないということだと思います。


 そしてイスラエル相続の土地全体の中心に長さ25,000キュビト(約11キロ)、幅10,000キュビト(約4.4キロ)の広大な土地を聖なる区域として神にささげるようイスラエルの民は示されます。約11キロとはホノルルの中心からアイナハイナまでの距離です。その中心に290m四方の正方形が聖所とされます。その聖所で、奉納物としてイスラエルの民の持っているものの内、最高のものを捧げなければなりません。


 経済的また物質的な有利さとか交通の便利さなどを中心概念とした近代の都市計画では、残念ながら全く考えられない神の御心とご計画に基づいた偉大なプランです。この広大な土地をすべて神にささげるということです。私たち今の世に住むクリスチャンにとって、このような広大な土地を神に奉納物として捧げることは不可能なことですが、私たちが神にささげることのできる最高のものとは何でしょうか。それはイエス様によって聖められた私たちの体と心ではないでしょうか。


 パウロもローマ書12章1節でいってます、「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」


愛する天のお父さま、今日のみことばを感謝します。クリスチャンとして未完成な私たちでも、人によって高低はありますが、一人ひとり最高のものを主の前に捧げることができるように、私たちを導き励ましてください。主イエス様の御名によって感謝いたします。アーメン


 
 
 

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