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2026年6月23日 エゼキエル書42章

hccnichigo
6月23日
読了時間: 2分

『主の神殿』


 エゼキエル書の40章から48章にかけて描かれている、細かな設計図は、これからエルサレムで再建されて行くソロモン神殿やヘロデ王による神殿のどれとも一致していないのですが、恐らく、将来の主の神殿の姿なのかもしれません。千年王国では、主イエスのもとに神殿があるでしょうから、その時の神殿ではないか、とも想像しますが、これは主の神殿の姿が描かれているのでしょう。


 この42章は、特にその中の神殿の北側と南側にある、聖なる部屋 祭司の部屋が描かれていて、ここは完全に、世俗的なものと聖別されるために、聖なる衣服に着替えて、聖なる物を祭司たちが食べることに注目しましょう。


20節b「その長さは五百竿、幅も五百竿で、聖なるものと俗なるものとを分けていた。」


 私たちも教会も、実に聖なるものとして、世間から分けられて主の喜ばれるものとなりたいのですが、どうしても世俗のものを引きずって、教会に来てしまうのが現実ですね。しかし、ここでは、厳密に聖なる物を食べ、世俗的な服を聖なる服に着替えてから、主への奉仕することが求められているわけです。


 神殿といえば、私たちは、イスラエル旅行に行って、エルサレムの嘆きの壁と呼ばれる西の壁、ヘロデ大王の時代に造られた神殿の丘を支える巨大な擁壁なのですが、紀元70年にローマ軍によって神殿が破壊され、礼拝の中心が失われたことで、神殿の破壊を悲しみ、メシアの到来を願って涙したので、嘆きの壁と呼ばれるようになったわけですが、この壁の前に立つ前に、ユダヤ人男性が頭にかぶる小さな丸い帽子、キッパがたくさん箱の中に入れてあって、ユダヤ人に敬意を示すために、自分もひとつ被ってから、この西の壁に行きました。男性は向かって左側、女性は右側と決まっていました。それから壁にそって左側に行くと、地下鉄の駅のような通路があって、そこには正統派ユダヤ教の人々が、熱心に祈祷したり、話し合ったりしておりました。彼らは皆、エルサレムに神殿がやがて建設されることを真剣に祈っているのでしょう。そのような時がくれば、このエゼキエル書にあるような主の神殿が建てられるのではないか、そして神殿が建てられて、ユダヤの民が主イエスを救い主として求める時に、主イエスが戻って来られると約束されたわけです。


祈り

私たちは主のしもべとなりました、しかしまだまだ乳飲子のように、主の奥義を理解できるまでには至りません。どうかみおしえを広め、主の再臨を説き、主の栄光を輝かすための力を主イエスの霊である、聖霊によって力を得ますように!アーメン 

文:森 宗孝


 
 
 

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