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2026年6月15日 エゼキエル書34章

hccnichigo
6月15日
読了時間: 5分

『イエスは良い羊飼い』


 この11節に「まことに、神である主はこう言われる。「見よ。わたしは自分でわたしの羊の群れを探し求め、これを捜し出す。」

 先週の関先生のメッセージにもありましたが、羊は、他の動物のように、襲われても身を守る牙がなくて、守ってもらう者が必要だ、そうしてどうやら羊の目は、いわば近視で遠くまで見ることができない、その代わりに聴覚は良いので、羊飼いの声を聞き分けることができるのです。群れの中のリーダーに黙って従い、後を歩む姿、そうして黙って食べさせるだけ食べさせてしまうと、太り過ぎになって倒れた時に、自分の力で立ち上がる事ができなくなるそうです。なんだか、そのような羊の姿は、まさに人間の姿を想像してしまいます。多くの旧約聖書の人物は、羊飼いでしたね。

 アブラハムも多くの羊を飼っていました、モーセもエジプトから出て、しゅうとのイテロの羊飼いをしている時に、神の山ホレブで燃える柴の中からの神の御声を聞きました。今、私たちが学んでおりますダビデ王も羊飼いの出身です。 


 しかし、エゼキエルは、この時代のイスラエルの指導者たちに対して、4節「弱った羊を強めず、病気のものを癒やさず、傷ついたものを介抱せず、追いやられたものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力ずくで、しかも過酷な仕方で彼らを支配した。」と非難しています。私たちは、常に自分達の罪の性格を思い起こさなければなりません。

 自分にとって何が利益となるか、不利益となるか、何が楽しいか、なにが不要なのかを、毎日の日常生活の中で繰り返し判断しているうちに、神の求められている姿からどんどん離れてしまって、傷ついた仲間に手を伸ばして助けあげることをしなくなってしまう、これが、この時代のイスラエルの指導者たちの姿でありました。そして、それは現代の我々にも当てはまることなのです。


 羊飼い話のことで、思い出があります。私たち夫婦は初めて宣教師としての経験を積むために、地震と津波に襲われた岩手県の山田町に半年ほど滞在していた時のことです。その時の山田町は、多くの家が崩壊したために、七つの避難所がありました。数十人から数百人規模の仮設住宅があって、そこを訪問して、映画を見せたり、英語教室などで、伝道を計画したのですが、仮設住宅の集会所を管理していたのは、社会協議会(社協)という半民半官の方々で彼らの許可が必要だったのです。それぞれの仮設住宅の担当が七名おられて、ちょうど月曜日の朝に彼らの会議があるので、私たちがどのような活動をしたいのか説明しに来てくださいというアポがとれたのです。

 一週間ほど、そのために祈っておりました。なんとか仮設の集会所を利用したかった、それが目的なのですが、公共施設を使用するのは、我々、宗教団体でもありますので、なんとも微妙な事でした。


 当日、七名の社協の担当者たちの前で、話を始めたのですが、なぜか自分の思っていた、集会所を使用させてくださいという話ではなく、思わず羊飼いの話をしだしたのです。聖書では、良き羊飼いの話がありますが、みなさんは、それぞれの仮設住宅の羊飼いですね。色々な苦労があるでしょう、しかし、人間は羊とは違いますから、あなたがたが一生懸命に、憩いを与えようと誘っても、手を貸してあげようとしても、自分の殻に閉じこもってしまう人たちもいるでしょう。そうして、そのような人の中には、自らの命を絶ってしまう人もいるかもしれません。しかし、そうなったとしても、あなたがた羊飼いのせいではありませんよ。と言った時に、自分の前に座っていた女性が、突然泣き崩れてしまったのです。自分も驚きましたが、恐らく彼女の仮設住宅で命を絶った人がいて、責任を感じていた人ではなかったのか、聖霊の導きで、自分では思ってもいなかった羊飼いの話をしたのだろうと、後になって気づいたわけです。


 でも、この時の社協での話しのおかげだろうと思うのですが、私たちは自由に仮設住宅の集会所で活動することができるようになったのです。一緒に食事したり、映画会をしたり、みなさんから津波の話を聞いたりするのですが、彼らに言わせると、同じ経験をした仮設の人には、亡くなった人を思い起こすような、辛い思い出を思い出させてしまうので話せないけれど、外国人、自分も外国人と見られてしまったのですが、あなたたちには気軽に話せるということでした。時には、自分の顔をじっと見て、あんたどこで日本語を習ったのと聞かれる始末でした。時々、年寄りの人で、あまりにも岩手弁がきつくて、話の半分もわからない人もいたので、確かに自分は、彼らにとっては異邦人でもあったのですね。

 まだ津波の記憶が鮮明で、子供でお風呂に入るのが怖い、津波を思い出すという子がいたり、話している途中、町のアナウンスが大きなスピーカーから話だすと、みんな全てをやめて、動きもストップ、今度はなんだろうと真剣に聞いている姿に、津波のアナウンスを思い出しているのだろうと思ったりしたものです。


祈り

 私たちは、主が私たちのために送ってくださった、良き羊飼いである主イエスを知っていることに感謝いたします。主が迷っている私たちを捜しだされ、救い出してくださいますことに感謝します。主と共に憩いの牧場にいる喜びに溢れますように。 アーメン 

文:森 宗孝


 
 
 

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