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2026年6月14日 エゼキエル書33章

hccnichigo
6月14日
読了時間: 2分

「わたしは決して悪しきものの死を喜ばない。悪しき者がその道から立ち返り、生きることを喜ぶ。立ち返れ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ、なぜ、あなたがたは死のうとするのか。」11節(抜粋)


 この11節のみ言葉がとても心に響いてきました。神は、罪をおかした者に厳しいさばきをされます。イザヤ書、エレミヤ書、そしてエゼキエル書を読んできて、神のさばきが半端でないおそろしいものであることを学んできました。しかし、それでも、神は、決して悪しきものの死を喜ばれません。そればかりか、罪の中を歩んでいる人たちに、「立ち返れ。悪の道から立ち返れ。」と呼びかけています。なんという神の恩愛でしょうか。立ち返るのは、もちろん主なる神のもとです。私たちに命を与え、その命を奪うことのできる命の神に立ち返らなければ真の希望を得ることができません。


 さらに、神は、絶望的な捕囚の民に、「悪しき者がその道から立ち返り、生きることを喜ぶ。」との約束を与えておられます。「立ち返れ」との招きの機会を与えておられます。そして、「イスラエルの家よ、なぜ、あなたがたは死のうとするのか。」と呼びかけられます。神の罪の赦しと希望、約束、そして慰めの言葉を与えてくださっています。神が望んでおられることは、彼らだけにではなく、自分にも伝わってくる思いです。それは、彼ら(私たち)が悔い改めて、神に立ち返ることです。


 この章の最初に神はエゼキエルに見張り人の責任を負わせられます。この箇所を、ある牧師は伝導に例えて述べられていました。私たちは、福音を聞く人々に対して、その人がそれを信じさせる責任は負っていません。信じる、信じないは聞いている本人にあります。(私も同感です。私たちの役目は福音の種をまくことです。)その後が、とても考えさせられるようなことを述べています。


 けれども、もし福音を伝えなければ、その人は必ず死に、死んだ後にさばきを受けます。そして私たちは伝えなかったことに対する責任を持つということです。福音を伝えることが、私たち先に救われた者の使命感であることが示されました。


 御在天の父なる神様。御名をほめたたえます。あなたの私たちへの愛を心から感謝します。親しい友に嫌われることを恐れずに大胆に福音を伝えることができるように導いて下さい。福音を伝えなかったことへの罪責感をもつことがないように助けて下さい。感謝して主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン


 
 
 

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