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2026年6月13日 エゼキエル書32章

hccnichigo
6月13日
読了時間: 2分

「わたしがエジプトの地に荒廃をもたらし、わたしがそこの全住民を打ち、その地がそこに満ちるすべてを失って荒れ果てるとき、彼らは、わたしが主であることを知る。」(15)


 32章では、強大な国エジプトと、その王ファラオの滅びが語られています。


 当時のエジプトは多くの国々が頼りにする大国でした。イスラエルもまた、不安や恐れの中で神さまではなくエジプトに助けを求めようとしていました。しかし神さまは、そのエジプトでさえ滅びることを示されます。


 そして後半では、人々から恐れられていた国々アッシリアやエラム、エドムの姿が描かれ、最後には死の前で同じように力を失っていました。どれほど強く見える国も、どれほど栄えている王も永遠ではありませんでした。


 その姿を通して、人の力や栄光には限りがあり、永遠に続くものではないことを教えられました。

 この箇所を読みながら、私は自分が何を頼りにして生きているのだろうかと考えさせられました。

 私は生活のこと、仕事のこと、家族のことなどを考えているうちに、知らず知らずのうちに神さまよりも目に見える安心を求めていることがあります。自分の経験や人の言葉などに心が向いてしまう弱さがあります。けれども、この章を通して、本当に変わることのないお方は主だけなのだということを改めて思わされました。


「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。」(マタイ24:35)

 またパウロも、「私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。」(Ⅱコリント4:18)と語っています。


 私たちの周りにあるものは変わっていきます。健康も環境も人との関係も、この世のすべてはいつか過ぎ去っていきます。しかし主の御言葉は変わることがなく、主ご自身も変わることのないお方です。


 自分の人生をここでもう一度振り返ると、その都度、主が支えてくださり必要な恵みを与えていただいて、ここまで導いてくださいました。だからこそ、目に見えるものではなく、目には見えなくても確かに生きておられる主を見上げて歩みたいと思います。


愛する天のお父さま

 人の力や栄光がいかに限りあるものであり、あなただけが永遠に変わることのないお方であることを教えてくださり感謝します。どんな状況の中でも、あなたが共にいてくださることを覚え、平安をもって歩むことができますように。

 イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン


 
 
 

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