2026年3月9日 エレミア書1章
- hccnichigo
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『まだ若いと言うな』
預言者エレミアの時代は、ユダ王ヨシアの時代で、およそ紀元前626年頃に召命を受け、その後、神殿から律法の書が発見されて、ヨシア王の宗教改革が起こるわけですが、この時すでに北王国イスラエルはアッシリアに捕囚されてました。そしてエレミアは南王国ユダの捕囚前に預言者となり、さらに約40年後には、生きてバビロン捕囚を体験した、滅びてゆく民と共に悩み苦しみながら、涙ながらのとりなしを続けたので、涙の預言者と言われています。なぜかというと、エレミアが神のことばを語れば語るほど、南王国ユダの民は、彼を苦しめて、家族にも見放されて、時には井戸に投げ込まれたり、監禁されたりした苦難の中の預言者だからです。そしてエレミア自身も、辛さのあまりに、みことばを伝えるのを辞めようとするのですが、主のことばは彼の心にあって、燃え続けて溢れるように、民に語りかけざるをえないという経験をするのです。
預言者というヘブル語は「ナヴィ」といって、単なる未来を予言する者ではなくて、神のことばを預かって民に、神の心や意図、警告や励ましも伝える役目の人という意味で、神のことばが彼自身の心、もしくは魂の中で煮えたぎって、抑えきれずに民に告げざるを得なくなるという意味あいもあるのだそうです。まさにエレミアが抑えきれずに、みことばを伝えた時の気持ちを表しています。
さて、主は、ここで未だ若いエレミアに「わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。彼ら(ユダの王たち、首長たち、祭司たち、民衆)の顔におびえるな、わたしがあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。」と語りかけたのです。エレミアは初めに、私はまだ若すぎて、どう主のことばを語ったらよいか分からないと伝えた時に、主は「まだ若い、と言うな、わたしがあなたとともにいる」と宣言されました。はたして、もしも、私たちが主に選ばれて、主から声をかけられたら、喜ぶでしょうか、恐れるでしょうか。
ところが、主イエスを信じて、聖書を学ぶうちに、すでに私たちには、主イエスから声をかけられていることに気付かされました、マルコ16章15節「それから、イエスは彼らに言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。」と宣言されていることを覚えましょう。そうして、旧約時代には、本当に選ばれた一部の者、エレミアであったり、イザヤであったりする者に主の霊があたえられていましたが、主イエスの十字架の贖いと復活によって、すべての者に聖霊が与えられて、すべての造られた者に福音を宣べ伝えるための助け手としてくださったことを、思い起こされました。
さて、このエレミア1章には、少し理解しずらい主のことばもありました、11〜12節に「主のことばが私にあった。「エレミア、あなたは何を見ているのか。」私は言った。「アーモンドの枝を見ています」すると主は言われた。「あなたの見たとおりだ。わたしは、わたしのことばを実現しようと見張っている。」何かの隠語のように、どういう意味だろうと思ってしまいます。このような、ひっかかりのあることばがあると、調べてみましょう。アーモンドといえば、契約の箱に入れたアロンの杖には、アーモンドの杖でつぼみが出て、花が咲いていたいました。あれも主が見張っているという意味だったのでしょうか。 幕屋にある金の燭台(メノーラ)にもアーモンドの花びらが彫られていた。アーモンドの花は、梅の花のように、一番先に春を知らせてくれるので、主は見張っているという意味で使われたのだろうか。そして、アーモンド(あめんどう)のヘブル語は「シャーケード」で見張っているは「ショーケード」で子音が同じで母音が違う、言葉の語呂合わせになっていることも分かりました。覚えやすくするためアーモンドが使われたのかもしれませんね。
祈り
私たちは、すでに主のことばを頂いています。どうか私たちの幼い信仰が育ち、主の福音を伝える者と成長することができますように、私たちを聖霊によって満たし、イエスが共におられる毎日となりますように。 アーメン
文: 森 宗孝

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