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2026年3月17日 エレミヤ書9章

  • hccnichigo
  • 3月17日
  • 読了時間: 3分

『わたしを知っていることを誇れ』


 エレミア自身は祭司の子であり、育ったのもエルサレム近郊の祭司に与えられた村、アナトテの出身であるにもかかわらず、心のこもっていない宗教儀式や捧げ物に対しての身内に対して特に厳しい批判をしている。この地には悪から悪へ彼らは進み、わたしを知らないからだ(3節b)ー主のことばーこのような国に、わたしが復讐しないだろうか(9節b)と手厳しい。 その原因は律法に歩まず、バアルの神々に従って歩んだからだ。そのためにユダの町々は荒れ果てた地となる。エルサレムの滅亡を預言している。


 私たちの故郷である日本をかえり見た時、もしくは今のアメリカの姿を見ると、どうしてもひと握りの富ある者が富を誇り、権力や影響力を持つ、力ある者は力を誇っている。日本には人の手で造られた偶像が満ち溢れ、自分達の幸福や祈祷の対象となっている。アメリカでは建国の時の清教徒が神の国の建設を理想としていた目標から大きく外れて、聖書のみことばが学校から追い出されてしまっている。


 主はこう言われる、23~24節「知恵ある者は自分の知恵を誇るな。力ある者は自分の力を誇るな。富ある者は自分の富を誇るな。誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。わたしは主であり、地に恵みと公正と正義を行う者であるからだ。まことに、わたしはこれらのことを喜ぶ。ー主のことば。」主なるキリストを知っていることを誇れと言うのです。

 マタイ6:24「だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。」まさしく、真理のことばですね。私たちにとって、富を追い求めることが大切である時には、神を軽んじてしまう、これが今の社会、日本とアメリカというよりも、世界の傾向であることは間違いないようです。

マタイ6:33「まず神の国と神の義を求めなさい、そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」キリストの前に立って、私たちは、自分には知恵がありますとか、力があるとか富んでいるとか面前と言うことのできる者はおりません。わたしの声に聞き従わらずにいる者たちは、絶ち滅ぼされると主はここで、エレミアを通じて伝えておられます。


祈り

私たちには罪の心が残っておりますが、主イエスを信じることによって、良き枝から良い実を結ぶことができますことに感謝します。しかし、私たち自身の肉の根から直接出てくる枝は悪い実が結んでしまうことも、理解しつつ、主イエスを信じ続けて、良き実を結ぶことができますように。 アーメン

文: 森 宗孝


 
 
 

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