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2026年6月22日 エゼキエル書41章

hccnichigo
6月22日
読了時間: 2分

『至聖所、本殿を測る』


 私たちの世界の創造主であり、聖なる神が罪にまみれた人間の世を訪ねること、それ自身は驚くべき出来事です。私たちを愛する神は、遠いかなたの第3の天におられて、人の世界を眺めておられるだけではなく、この混沌とした、泥沼の世を尋ねて下さって、直接にみことばを語って下さるのです。ちょうど朝日に輝く白いハスの花、露をはじきかえす葉に囲まれて、この世の泥沼の中から伸びてきて花咲花ように、主が私たちの中に来られ罪をはじきかえし、光となりました。


 さて、この章では、神殿のサイズが示されていて、まるで建築用の青写真のように、計測している不思議な章です。そこで目につくのは、本殿という言葉が使われていて、前には話したかもしれませんが、日本の神社の本殿も、実は神様が鎮まる場所で、一般の人は入れない最も神聖な場所で、神主しか入ることができません。一般の参詣者は、拝殿まで入る事ができますが、本殿には入れません。このように、宗教は異なっていても、神の臨在する所が神聖なことは変わりがないのは不思議なことではないでしょうか。


 この時すでに、エルサレム神殿はBC586年に破壊されてしまい、主の栄光が神殿から去ってしまっています(エゼキエル10章)、しかしここに回復された、新しい主の神殿が示されて神の栄光が再び戻ってくるという希望につながっているのかもしれません。 

 

 そして、主の臨在されるためには、神殿も聖なるものでなくてはならず、そこには主が示す秩序と区別が必要だと教えているのではないでしょうか。 この主が臨在される本殿を測ってそれが、20キュピトの正方形であることが記されています、それはかなり小さな空間ですが、やがて来る新天新地も、正方形であることに驚きます。


ヨハネの黙示録21章1節「また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。」


 この都は、本殿が何千倍にも広がった、巨大な正方形で、私たちはここに主とともに、主の本殿に住むことになるのです。


祈り

私たちはすべて、肉体の死を迎えますが、霊は生き続け、朽ちない身体として復活して、主の都に一緒に住むことになります。主イエスを信じ、愛した者は、主イエスがとりなしの祈りをしてくださり、罪ある身でありながら神の目には義として認めて下さり、この都に招いて下さる恵みにあずかっていますことを感謝致します。アーメン 

文:森 宗孝


 
 
 

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