2026年2月9日 イザヤ書61章
- hccnichigo
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『ナザレ村での朗読』
このイザヤ61章は、ルカ4:17~22で示されている、主イエスが自分の故郷のナザレ村の会堂で、イザヤ書が渡されて、朗読されたみことばです。この時代では、会堂の中で先生(ラビ)的な人が聖書を読みあげて、さらに有名な律法学者などの解釈をもって紹介するというのが、ユダヤ人のシナゴグ(会堂)での礼拝の流れでありました。今日の教会の礼拝と似ているようです。しかしながら、この時にイザヤ書を渡された主イエスは、この61章のすべてを読まずに、1節と2節の初めで、朗読を途中で辞められたのです。そして巻物をおいて言われたのは、「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。」ルカ4:21と宣言されたのです。
それは、この61章1節にあるように「神である主の霊がわたしの上にある。(これは主イエスの洗礼を受けた時に鳩のように、御霊が降りました)貧しい人に良い知らせを伝えるため(天の御国が近づいている)心の傷ついた者を癒やすため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年」ここまでは、主イエスが初臨されて人を癒し、傷ついた者、父なる神から離れてしまった者たちの魂を解放されたことで、実現して、主の恵みの年(ヨベルの年)が、主イエスによって実現したのですということを、子供の頃から育った故郷の村で宣言されたのです。
しかし、61章で続く2節以降のことは、まだ実現していない、主の再臨の時の話であるので、主イエスは、読み上げませんでした。2節以降を省略:「われらの神の復讐の日を告げ、すべての嘆き悲しむ者を慰めるために。シオンの嘆き悲しむ者たちに.....10節 私のたましいも私の神にあって喜ぶ...花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。」これは、主イエスの再臨の時に実現する王国の時のことを語っているので、主イエスは61章の全部をお読みにならず、最初の初臨を示すところで、今日この聖書のことばが実現しました。と宣言されたのです。
ナザレ村の会堂には、主イエスが幼かった頃に一緒に育ち、遊んだ青年たちもいたことでしょう。恐らく、マリアの夫ヨセフはすでに世を去っていたのかもしれませんが、主イエスの兄弟たち、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダ、そして姉妹たちを、子供の頃から知っている近所の人たちも居たことでしょう。ですから、イエスが神の代弁のようにして、聖書のことばが自分によって実現したと言うのを聞いて憤慨し、神を冒涜している、大工の息子として、ナザレの村人たちは、主イエスを丘から突き落とそうとしたわけです。その時、主イエスは言われました「預言者はだれも、自分の郷里では歓迎されません。」
このように、イザヤ書や他の預言書でも、救い主の到来が二度あることなど予想外で、彼らには初臨の主の姿も、再臨の主も同時に幻として表されて、そのように描いていたのでした。特にイザヤ書には、救い主が、インマニュアルとして世に生まれ、育ち、伝道し、そして神のしもべとして人々の救いをまっとうし、さらに死に打ち勝ち、やがて御国を建設されることが描かれています。それを読む私たちは、主イエスの初臨のことが実際に実現して、預言されたようにしもべととして来られたことを理解しておりますから、やがてもう一度戻って来られる再臨の預言も、絶対に確実であると信じることができるのです。
祈り
主イエスが父なる神のしもべとして、私たちの咎のために十字架の苦しみを受けて、私たちの罪の赦しの象徴となったことに感謝いたします。そしてやがてもう一度来られる主を待ち望みます。アーメン
文: 森 宗孝

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