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2026年2月11日 イザヤ書63章

  • hccnichigo
  • 2月11日
  • 読了時間: 2分

 9節「彼らが悲しむときには、いつも主も苦しみ、主の臨在の御使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって、主は彼らを贖い、昔からずっと彼らを背負い、担ってくださった。」


 1節から6節には、神の裁きと、主ご自身がその裁きの返り血を浴びている姿が描写されています。

 その返り血とは、イスラエルの民が、神の裁きによって悲しむとき、主ご自身も苦しんでいることを意味しています。神の怒りは、怒りを発散してすっきりというものではありません。その怒りの分だけ、ご自身の心も痛むのです。

 なぜなら、そこに愛があるからです。愛する子を懲らしめるとき、懲らしめられている子も辛いですが、懲らしめている親の方がもっと辛いのです。


 そして神は、その裁いた民をそのままにはされません。「主の臨在の御使い」という珍しい表現ですが、裁いた分だけ主の愛とあわれみが注がれ、それでもなお主が共にいて、しかも共にいるだけではなく、背負って、担ってくださるというのです。


 子育て真っ最中の時には、子供を厳しく叱る時があります。叱られて落ち込んでいる子供を次の瞬間、息が詰まるほど抱きしめて「愛してるよ」と声をかけるのです。その時に、子供は義と愛を学びます。悪いことは悪いのだと、それには刈り取りがあること。しかし、どんなに悪いことをしても、自分が愛されていることには変わりがないこと。この義と愛を知ることによって、子供は真の神を知るようになります。


 それにしても、主に背負われている自分を想像してみてください。全身の力を抜いて、リラックスして、自分の全存在をその背中にあずけるのです。私たちの天の父は、そのようにして私たちのすべてを担ってくださるお方なのです。


 天の父なる神さま

 天の父であるあなたの背中に、自分が背負われていることを感謝します。あなたの体温を伝わってくるようです。私の全身をあなたにお任せいたします。どうかあなたの御心のままに運んでください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン                                           文:関真士


 
 
 

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