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2026年2月14日 イザヤ書66章

hccnichigo
2月14日
読了時間: 2分

 日本での生活が始まってから、今もどこか落ち着かない気持ちでいます。教会はまだ見つからず、思っていたように日曜日にオンライン礼拝をすることもできておらず、日曜日も平日と変わらないように過ぎていることがあります。祈れない日も聖書を開けない日もあります。 そんな自分を見て、「私は信仰から遠ざかっているのではないか」と感じてしまいます。


 それでも、不思議なことに、そんな日々の中で、こうしてディボーションを書き、みことばの前に立ち止まる時間だけは、私の手から離れずに残っています。


 今の私にとって、このディボーションの時間が、神さまとのつながりを、かろうじて保っている唯一の場所のように感じることがあります。


 そんなとき、1節~2節の言葉が心に留まりました。


「天はわたしの王座、地はわたしの足台。あなたがたがわたしのために建てる家は、いったいどこにあるのか。わたしの安息の場は、いったいどこにあるのか。」(1)


「これらすべては、わたしの手が造った。それで、これらすべては存在するのだ。ー主のことばーわたしが目を留める者、それは、貧しい者、霊の砕かれた者、わたしのことばにおののく者だ。」(2節)


 神さまが目を留められるのは、整った礼拝ができている人ではなく、何もできず、立ち止まっている人なのだと、この言葉は教えてくださっているように思いました。


 私は、何もできていません。でも、神さまの前では正直でいるつもりです。たとえ隠したとしても、できないそのままの自分を神さまに知られています。


 13節で、神さまはこうも言われます。


「母に慰められる者のように、わたしはあなたがたを慰める。エルサレムであなた方は慰められる。」(13節)


 祈りの言葉が出てこない日にも、信仰が細くなったように感じる日にも、神さまは私を見失っておられませんでした。

 むしろ、何もできない場所で、このディボーションを通して、神さまは静かに、私とつながっていてくださっているのだと、今は思います。


 イザヤ書66章は、「何もできない場所」こそが、神さまが住まわれる場所になるのだと、私に教えてくださっているように思います。


愛する天のお父さま

 何も差し出せない私を、それでも見捨てず、あなたとのつながりを保ってくださっていることを感謝します。 この時間を、どうかあなたの恵みで満たしてください。

 イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン


 
 
 

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