top of page

2025年9月29日 詩篇第147篇

  • hccnichigo
  • 9月29日
  • 読了時間: 3分

『主のことば ダバール』


 今朝は、少し聖書の解釈から入ります。創世記で天地創造の記録から始まって、ヨハネの黙示録では、新天新地の完成の記録と、永遠に始まって、永遠に終わる書です。そしてこの詩篇の15節には「主は地に仰せのことば(ヘブル語でダバール)を送り そのみことばは速やかに走る。」とありますが、これは天地創造の始まりである、創世記1章3節「神は仰られた。『光、あれ。』とすると光があった。」 神はことばによって天地を造り始められました。そしてこのヘブル語ダバールとは、出来事という意味でもあるのです。

 神が語られた、みことばは、虚しく返ってくることがなく、出来事として起こるからです。


 少し、宣伝も兼ねて、自分はホノルル教会の土曜日の関先生の聖書クラスの代打として、しばらくヨハネの福音書1章の学びをしています。「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」ここで使われている、ことばは神の本質を現すメムラという原語で、創世記のダバールは、神の命令、実行力を現す言葉ですが、多いに関連しているわけです。そしてこの「ことば」神の実行力であることばがイエス・キリストであるとヨハネの福音書は語っているのです。


 このような理由で、この詩篇の15節のことばが、まず目に止まったのです。そして、続いて2節「主はエルサレムを建て イスラエルの散らされた者たちを集められる」まさに今のイスラエルの国の建設は、そのようにして国ができました。そして19節と20節は、非常に意味が深いです。

イスラエルには おきてとさばきを告げられる。主は どのような国々にも このようになさらなかった。 さばきについて彼らは知らない。ハレルヤ」

 人は罪によって死ぬ事と神の御座で裁かれる事が決まっていますと聖書は、語りますが、このさばきについて、国々は知らないというのです。どうでしょうか、日本を見ると、バチが当たるよ、地獄に落ちるよという、言い回しがありますし、けっして死後の世界で、裁きがあることを否定はしていないけれで、心から信じていないのではないかと心配になります。


 主イエスを信じて救われるということには、罪から救われること、肉体的な死から救われるのではなく、霊的な死から救われやがて永遠の復活の身体を頂くことですが、やがて行われる、御座の裁き、すべて亡くなった人たちも、この裁きを受けることになっていますが、この第二の死からも主イエスの十字架のおかげで、その信仰によって第二の死を受けることはないというのが、主イエスを信じて受ける恵みなのです。


祈り

私たちの傷を癒し、支えてくださる主に感謝します。主はやがてこの地で王となり、真の平和を築き、祝福を与えてくださることにハレルーヤ 心から感謝します。アーメン 

文: 森 宗孝


 
 
 

最新記事

すべて表示
2025年11月30日 雅歌8章

「封印のように、私をあなたの胸に、封印のように、あなたの腕に押印してください。愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しいからです。その炎は火の炎、すさまじい炎です。」6節  強い夫婦の愛が描かれています。これほどの献身さがあると夫婦の愛、結婚愛は壊れないのではないかと思います。同時に私たちも神との霊的な関係がこのように強くあれば決して信仰が揺るがされることはないということにつながっていきます。

 
 
 
2025年11月29日 雅歌第7章

ああ、人を喜ばせる愛よ。あなたはなんと美しく、麗しいことよ。(6)  花婿の花嫁に対する愛は1章から一貫してずっと変わらず、熱烈な愛を語っている。花嫁は最初の頃は、花婿から愛の言葉を受けながらも自分の外見を気にしていたり、自分も花婿への愛を表現していても、自分の都合で花婿を拒んで、その後慌てて探し回ってみたりと、愛に対して受け身で、不安定な印象だった。  そんな花嫁に、それでも花婿は花嫁の愛は、美

 
 
 
2025年11月28日 雅歌6章

先の5章の終わり辺りで、花嫁が花婿を突然見失った時、エルサレムの娘たちが「あなたの愛する方は、ほかの愛人より何がすぐれているのですか。」(5:9)と花嫁に質問をします。それに対して花嫁は、花婿がどんなに素晴らしい方であるかと褒めたたえ、はっきりと「これが私の愛する方、これが私の連れ合いです。」(5:16)と答えます。  さて6章はその続きです。最初花嫁がなぜそんなに必死になって花婿を捜すのか理解で

 
 
 

コメント


bottom of page