2025年9月26日 詩篇第144篇
- hccnichigo
- 9月26日
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「主よ。人とは何者なのでしょう。あなたがこれを知っておられるとは。人の子とは何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。人はただ息に似て、その日々は過ぎ去る影のようです。」(144:3,4)
私を含めて、人間とは愚かで、弱くて、罪深い存在で、またその人生は、いかにはかないものなのかなと思いがちです。特に「人は息に似て、その日々は過ぎ去る影のよう」を読む時、仏教的な言葉「泡沫夢幻/諸行無常/栄枯盛衰」を思い出し、人間の弱さとかはかなさを思わされます。
歴史上また聖書の中でも偉大な人物であり、信仰の深いダビデさへ、主よ、いったい人間とは何者なのでしょうか、あなたにとってこんな自分はどんな価値があるのでしょうかと神に問いかけています。そしてダビデは他の詩篇を通して、自分がいかに醜い罪深い人間であって、主に見放されても当然であると告白しています。「ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました」(詩篇51:5)
しかし、この詩篇ではダビデは、自分のように、はかなく、小さく、弱く、罪深い汚れた者の全てをご存知でも顧みてくださるとは、神はいかに愛に満ち、寛容なお方であるかを驚きと喜びと感謝を込めて歌っています。イザヤ書43:4「私の目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」を思い出させてくれます。
ダビデがそれまで勝利の人生を送ってくることができたのは、王の富でも、王の軍隊のせいではありません。それは神を愛し、すべてのことで神に信頼し従う信仰のゆえだったのです。
しかし神の愛は、人間の側からは何もしなくても、主がそのご計画のすべてを成し遂げてくださるということではありません。人間の側からなすべきこと、また手段を、神は示してくださいます。「主は、戦いのために私の手を、戦のために私の指を、鍛えられる」(144:1)
恵み深い天のお父さま、私たち人間一人一人はあなたに愛されるような価値はないものですけれども、それでも私たちをその深い愛で導いていてくださることを感謝します。そして私の罪を赦し、新しい永遠のいのちを与えるために、イエス様を私の罪の身代わりとして送ってくださいました。そればかりでなく、私たちを永遠の神の栄光の器として育て上げていくため、私たちの手を、また指を鍛えていてくださることを感謝します。
God Is Good All The Time. アーメン

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