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2025年6月16日 詩篇第42篇

  • hccnichigo
  • 2025年6月16日
  • 読了時間: 2分

『主を慕いあえぐ』


 谷川の流れを慕う鹿のように...という歌を思いうかべる詩篇ですが、実はこの42篇と43篇は、もともとは一つの詩篇だったというのです。それは特に42篇5節と43篇の最後5節が、まったく同じ内容が繰り返しているのでもともとは一つの詩だったと言われています。


 恐らくこの詩は、エルサレムがアッシリアに滅ぼされて捕囚の身になっている時に祭司が歌ったのだろうと言われているのですが、確かに「おまえの神はどこにいるのか」問われているのと、ガリラヤからさらに北上したヘルモン山で故郷を思い出している様子が伺われます。そのような捕囚の中で「なぜ、あなたは私をお忘れになったのですか」と問いかけています。イスラエルの神、あなたがたの神はどこにいるのか、助けに来てくれないではないかと、そしられて過ごしているユダの民です。


 私たちクリスチャンも、あなたの信じている肝心なキリストはどこにいるのか?アーメン・ソーメン・冷やソーメンと言われて揶揄されたことはありませんか。主イエスの十字架から、すでに2千年もの時間が経っていますから、自分自身でも、主イエスはどこにおられるのか?助け主はどうされたのか?

と自問することはありませんか。


 列王記第二6章に、預言者エリシャの住む町ドタンをアラムの王が馬と戦車と大軍を送って、町を包囲します。エリシャは主に願って町の若者に対して、17節「どうか、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」主がその若者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。」という記載があります。私たち主を信じる者も、天使や聖霊という目に見えない存在を信じてはいるのですが、やはり自分の目には見えないので、主の軍勢が教会を守っていたり、苦難を通されている者を守っている姿に気が付かないのです。


 アッシリア捕囚の身となった、このユダヤ人祭司もアッシリアという敵の虐げに、嘆きながらも、わが神を待ち望む、このような苦難のなかでも神をほめたたえる。私の救いは、私の神しかいないと確信しているのです。


祈り

私たちは、いつになったら神の御前に出られるのでしょう。私たちの魂がうなだれてしまう時こそ、今まで主にあって感謝したことを思い起こし、主を待ち望み、神をほめたたえることができますように。アーメン

文:森 宗孝


 
 
 

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