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2025年6月13日 詩篇第39篇

  • hccnichigo
  • 2025年6月13日
  • 読了時間: 3分

『神の絶対』


「苦しい時の神頼み」とはよく言ったもので、苦しいからこそ神により頼むのが、いつの世でも普通だと思う。だが詩篇39篇前半でダビデは苦しいのに訴えることをせず口をつぐんでいる。


1節  私は言った。私は自分の道に気をつけよう。私が舌で罪を犯さないように。口に口輪をはめておこう。悪しき者が私の前にいる間は。


2節  私はひたすら黙っていた。良いことにさえ沈黙した。そのため私の痛みは激しくなった。


 話すと神を冒涜してしまいそうで全てに関し口を閉じていた。でも自分の気持ちを押し込めて生きていると心が辛くなる。ついにはこらえ切れず、あと自分はどれぐらい生きられるのか教えてほしいと、主に懇願する。

 2節の「痛み」とは実際の身体の痛みであったかもしれない。神への沈黙を保っていたせいで心の痛みが強くなったかもしれない。または両方かもしれない。

 稀れに見る作者の神様への沈黙、その後の語りかけ、そして神の希望を待ち望む場面である。作者であるダビデはこの時、病気だったのか、体が衰退している頃に書かれたという。

身体に痛みを覚えると心に痛みが同時発生することが多い。逆もしかり。


6節 まことに人は幻のように歩きまわりまことに 空しくたち騒ぎます。人は蓄えるが 誰のものになるのか知りません。


7節 主よ 今 私は何を待ち望みましょう。私の望み それはあなたです。


12節 主よ 私の祈りを聞いてください。助けを求める叫びに 耳を傾けてください。私の涙に 黙っていないでください。私は あなたとともににいる旅人すべての先祖のように 寄留の者なのです。


 6節で、人は幻のように働きお金を蓄えるが、最終的に誰のものになるのかも知らず空しい。7節でやっと神への望みを託し、12節で「私の叫びを聞いて下さい」と訴える。


「よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。」(方丈記)


 この文は、「川の流れは絶えることはないが、そこを流れる水は同じではない。波打ち際の泡のように、人間の生活もはかない」という意味が込められている。

 6節で語られた人の世の空しさと似ている。古代イスラエルでも昔の日本でも人の世は空しく儚いと表現している。



祈り:

天の父なる神様、

私たちにはイエス様がいます。儚いこの人生も天への希望とさせて下さる。口を開けば災い、しかし言わないでいるのも辛い。辛い時も順風満帆の時も私たちは主に祈ることができる。なんという恵みだろう。私は一人ではない、絶対に私を孤児にしないと言って下さる。だから辛い時も神様に望みをかける。生かされていることに日々感謝します。感謝を込めてイエス様の御名により祈ります。

文: マッカーター政子

参照: 


 
 
 

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