top of page

2025年5月21日 詩篇第16篇

  • hccnichigo
  • 5月21日
  • 読了時間: 1分

 なんと美しい詩篇でしょうか。一言一言が身に沁みます。その中から一か所だけ取り上げます。


「私はいつも、主を前にしています。」(8)


 ダビデは、主を前にして歩みました。この「前に」ということばは「透かす」という意味があるそうです。ダビデは、主を透かして向こうを見ていたということです。

 ダビデは、いつも、主を通して物事を見ていました。それは、主の目で、主の耳で、主の口で、主の心で、物事に対するということです。


 WWJD What would Jesus do?  イエスさまならどうするか? この事を人生の判断基準として、いつも歩んでいきたいと思います。それが、主を前に置くことです。

 いつの間にか、主の前に先走っていることがあります。自分は、今どこにいるのか? 主を前にするということは、主のすぐ後ろにいるということです。主の御足に後に従って行く、まさに主の弟子の姿です。


 天の父なる神さま

 あなたは、いつも私たちの前にいてくださることを感謝します。私たちがいつも主を前において、主を通して物事を判断していくことができますように。どうか聖霊なる神が助け導いてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

文:関真士


 
 
 

最新記事

すべて表示
2025年12月2日 テモテへの手紙第一2章

『人としてのキリスト』  このテモテへの手紙、牧会書簡は、パウロの牢獄からの最後の書です。愛弟子のテモテに、パウロ自身も頂いて、テモテへ伝えた福音を守り抜きなさいという命令の書でもあります。教会に集うすべての人々、身分も異なり、高い地位の人も、奴隷となっている人も、男も女もすべての人のために、祈り、とりなし、感謝をささげなさいと、この老いた、恩師であるパウロは、若いテモテに語っています。  4節「

 
 
 
2025年12月1日 テモテへの手紙第一1章

『罪人のかしら』    若きパウロの熱情は、律法に燃え、クリスチャンは神を冒涜する者として徹底的に、彼らを迫害する者であったことを思い、自分は、本当の神であるキリストを、知らず知らずに迫害してしまった、私は罪人のかしらであったと告白しています。そして今はキリスト・イエスによって使徒となった。使徒は、弟子とは異なり、主イエスから権威を受け選ばれた者、弟子は主を先生として学ぶ者で権威はありません。  

 
 
 
2025年11月30日 雅歌8章

「封印のように、私をあなたの胸に、封印のように、あなたの腕に押印してください。愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しいからです。その炎は火の炎、すさまじい炎です。」6節  強い夫婦の愛が描かれています。これほどの献身さがあると夫婦の愛、結婚愛は壊れないのではないかと思います。同時に私たちも神との霊的な関係がこのように強くあれば決して信仰が揺るがされることはないということにつながっていきます。

 
 
 

コメント


bottom of page