2025年4月28日 ピリピ人への手紙1章
- hccnichigo
- 4月28日
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『生きることはキリスト』
ピリピ書は、関先生によってのメッセージが1月から続いた場所で、皆さんにも記憶が新しいのではないかと思うので、この先生のメッセージにもある、ピリピ書が喜びの書の中で、全体は語られているので、特に1章の難しいみことばである、21節「私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。」を焦点に考えてみたいと思います。
パウロはローマの獄中から自己紹介として、ガラテヤ書では、キリストの代表という意味で、権威ある使徒パウロとしているのですが、このピリピ書の1節では、イエスのしもべ、つまりイエスの奴隷としてのパウロと自分を表していることに注目しましょう。10年前に訪ねて牧会したピリピ教会、彼らはパウロに手伝いの者(エパフロディト)を送ってくれましたことに感謝するためのピリピ教会への手紙です。しかしパウロは、この自分は、キリストのしもべ、奴隷ですとしてイエスのことを、まるで湧き上がってくる泉を抑えきれない者のように主のことを伝えたいのです。マルコ10章44~45節「あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。人の子も、仕えられるためでなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」とイエス自身がしもべであり、神の権威を捨てて、しもべの姿で仕える者となったと話されておられます。最後の晩餐でも、弟子の足を洗うという、奴隷の仕事を自らされて、仕えることを使徒たちに、見せておられましたね。パウロはイエスのしもべなのだと自負しています。
そして、パウロは生きることはキリスト、死ぬことは益であると言うのですが、どういう意味で言ったのか、理解するのが困難なところですが、自分が生きることは、キリストによって生きている、もしくはキリストのように生きていると考えれば、キリストの生涯は、迫害と弾劾の困難な生き方ですし、パウロもキリストとダマスコの途上で会ってからは、今までの尊敬を受け、裕福だった人生から、キリストのように困難な生き方に変えられたわけです。もちろん主イエスも、人の考える豊かさとは別の富をもっておられましたが、この世では迫害の中に生きておられましたので、ですから、自分が生きる人生は、キリストのように困難な十字架を負う生きる道だ、だから、この迫害、苦難の道から死ぬことは、自分にとっては楽になる、益になると言ったのではないでしょうか。
こう言い切った理由は、20節抜粋「生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです。」ここで訳されているあがめられるというギリシャ語は、拡大するという言葉に繋がっているそうです。ですから、自分の人生も、獄中を経ての死も、イエス・キリストが多くの人に知られる、拡大されるためであると言うのです。事実、パウロの生きている間に書き続けた手紙によって、そして彼の殉教によって、キリスト教は広がっていきました。
祈り
これほどのパウロの人生、生きるにしても死ぬにしても、イエス・キリストのことを広め続けるための人生だと言い切ることのできるパウロさんに、感激するとともに、彼の手紙に心から感謝いたします。 アーメン
文:森 宗孝

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