2025年3月28日 ヨブ記24章
- hccnichigo
- 3月28日
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この章では二つの文章に目が留まりました。「傷ついた者のたましいは助けを求めて叫ぶ。しかし、神はその愚痴に心を留められない。」(12節)と「しかし、神は力をもって、暴虐な者たちを生きのびるようにされる。」(22節)いつくしみ深き神は助けを求める者の声をお聞きになり、正しい神は悪者をその義をもって裁き懲らしめるのが正常だと信じている一般の私たちにとっては、簡単には受け入れがたい二聖句だと思います。
ヨブ記24章は「なぜ、全能者によって時が隠されていないのに、神を知る者たちがその日を見ないのか」と言う聖句で始まります。この「時」というのは裁きの時のことですが、そのような時が実際にあるようには思われないこの世界の様相は、どういうことなのかと信仰さへ捨ててしまいそうですが、ヨブは神への信頼を持ち続けます。23章11節に彼が語っている通りです。「私の足は神の歩みにつき従い、神の道を守って、それなかった。」
世の中の物事の多くは、一部の強欲な者たちの利益のために動かされているであって、その結果沢山の虐げられた人々、哀れな人々がいるというのがヨブの見解であり、現在の私たちも同感するところです。不当に扱われている人々、ひどい目にあわされている「荒野の野ろば」のような「哀れな人々」で溢れているのに、そのような人々に対して神は無関心で、その情けが少しも感じられない。それでもヨブは不信仰にはなりませんでした。
ヨブは、そういう腐敗した世の中の状況を知りながらも、それに染まることなく、神を信頼し、神にあって正しい生き方を貫いたようです。そして、ヨブ記の最初に語られた彼が遭遇した大変な不幸にもかかわらず、三人の友人たちの非難の前で、彼は神への信頼を投げ捨てることはしませんでした。
「しかし、神は力をもって、暴虐な者たちを生きのびるようにされる。」とは我々の意識する神の義とは違っているので、不信仰に陥りそうです。しかし、「彼らはしばらくの間、高められるが、消えうせる。彼らは低くされ、他のすべてのものと同じように刈り集められる。麦の穂先のように枯れてしまう。」とある通り、やがては普通の人たちと同じように、滅びてしまうのです。この世のことは単純な人間的な因果応報論では説明できないことが分かります。
ヨブは自分のおかれている不幸な状況のことで神を恨むことなく、ある教理とか理論とか感情に基づいた目で、主観的に世の現実を観察するのではなく、まるで科学者が現実を客観的に観察するのと同じように現実を語ることによって、この世のすべての現象の裏には神の御手が働いていることを指摘していると思います。そういう風に客観的に観察して得た世界観を通して、この世の物事を見せられるとき、すべてのことの背後には神の御手の働きのあることを誰もが認めざるを得ないのではないでしょうか。
愛する天のお父さま、今日の御言葉を感謝します。私たちの人生で経験する物事の中には、主の語られる法則とは必ずしも同調しない場合が多々あります。しかし、そんな場合でも、主が背後で操作されておられるのだから、すべては神にとっても、また私たちにとっても益となることを信じます。イエス様の聖名によってお祈りします。アーメン

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