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2025年3月26日 ヨブ記22章

  • hccnichigo
  • 3月26日
  • 読了時間: 2分

「神が裁きを曲げられるだろうか。全能者が義を曲げられるだろうか。」(3)


 ヨブ記の難しさは、例えばこのエリファズのことばは正しいということです。一節一節を見ると、それぞれが正しいことを語っているように見えます。21節の「さあ、あなたは神よ和らぎ、平安を得よ。」の御言葉からの名説教を聞いたこともあります。

 しかし神は、エリファズに対して「主は、テマン人エリファズに言われた。『わたしの怒りは、あなたとあなたの二人の友に向かって燃える。あなたが、わたしのしもべヨブのように、わたしについて確かなことを語らなかったからだ。」(42:7)と語っています。

 エリファズと二人の友の何が不確かだったのでしょうか。それは、神の正しさとは何なのか、ということを考えることになります。

 神の正しさとは、律法に現わされていますが、その律法の中心は、神を愛することと隣人を愛することです。神の正しさとは、愛することに尽きます。

 どんなに正しい論理を持っていても、その正しい論理で人を裁くなら、それは正しくないことをしているのです。私たちは、正しい事を使って正しくないことをしてしまうことがあるのです。

 この22章では、エリファズは正しいことを語っています。しかし、それでヨブを裁いています。ですから彼は正しくないことをしているのです。


 ですから21章でも、23章でも、ヨブの心には、この正しいことばが響かないのです。ヨブにとって友人のことばは、1コリント13章に記されているように、騒がしいドラ、うるさいシンバルと同じなのです。なぜなら、正しい愛がないからです。

 3人の友人には、ヨブに対する愛があったと思います。最初の7日間を黙して寄り添い、そしてヨブにとことん関わっているのです。愛がなければここまで出来ないでしょう。ただ単にヨブを責めているだけではないのです。

 しかしその愛も、論争しているうちに、ヨブに対する強要に変わってきてしまいました。ヨブを説得し、分からせようと境界線を超えてしまいました。その愛は自己愛へと変質していきました。

 

 ヨブ記を通して、本当の正しさとは何かを深く考えさせられます。


天の父なる神さま

 みことばを正しく理解し、正しい知識を持ちつつ、正しく人を愛するには、どうしたらいいでしょうか。私たちが、あなたの愛と、あなたの正しさを持ち、それを正しく表現できるように、聖霊の助けを与えてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン          

文:関真士


 
 
 

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