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2025年3月15日 ヨブ記11章

  • hccnichigo
  • 2025年3月15日
  • 読了時間: 3分

 11章はヨブの言葉に対しての友人ツォファルの応答だ。ツォファルら友人はあまりに悲惨なヨブの状態に声を上げて泣き、七日七夜地に座るだけでヨブにどんな言葉がけもすることができなかった。それほどまでにヨブの痛みに寄り添い、共に痛み悲しんでくれた。


 それまでヨブは、すべての子供を一度に失っても、「私は裸で母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」と神様を賛美し、頭の先から足の裏まで悪性の腫物で打たれ、妻に「神を呪って死になさい」などとひどいことを言われても、「私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいも受けるべきではないか。」などといっていた。これらのことばは、自分の感情にあえて蓋をし、感じないようにしているように思える。いや、神様こそ神様なんだと神様のなさることに、ただ信頼したいというヨブの心の表れなのかもしれない。


 そのヨブが共に悲しんでくれる友を前に、自分の感情を少しずつ吐露し始めた。すると、この思いやりあるはずの友人たちがヨブに説教を始めるのだ。心を許したからこそ、彼らのことばはヨブの心に、なお深く矢のように突き刺さったことだろう。


 この11章のツォファルの言葉は、友としての哀れみも愛情も感じられない厳しい口調で始まる。ヨブの溢れる嘆きを「無駄話」などと言ってしまう冷たさは何だろう。あの最初の七日七夜の心はどこにいったんですか?と聞きたくなるほどだ。私がヨブなら、子供も奴隷も、そして親友と信じていた友までも失っていたのかと思うと思う。


 古代イスラエルでは、病気や災害は罪の結果と考えることが多かったそうだ。ヨブは、罪というものにとても敏感で、罪を犯さないようにと注意深く生きてきた人だったと思う。だからこそ、止むことのない苦しみの中で戸惑い、絶望していた。ツォファルはわざわざヨブの災難を聞きつけてやってきてくれたのだから、親友だと思うのだ。だからヨブがどのように生きてきたか知っていたはずだ。「そうだよ、君は本当によくやっていた。」と言ってくれてもよさそうなものなのに、ヨブに隠れた罪があるはずだと決めつけて語り、独善的に自分の考えを押し付けてくる。


 友人たちとヨブのやり取りを通して、状況を勝手に理解して自分の意見を述べることの危うさを思った。愛する友を少しでも支えたいと思う時、その苦しみ、悲しみに寄り添い、ともに祈れたらと願う。


天のお父様 今日のみことばを感謝いたします。すべての苦しみは罪からくるという間違った理解から、また、自分の考えは正しいという思い込みから、大切な友達をさらに傷つけてしまうという悲劇を見ました。自分の経験や知識から、自分の考えが絶対と思い込むことがありませんように。痛み苦しむ人に教えようという誘惑に陥りませんように。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン


 
 
 

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