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2025年2月4日 コリント人への手紙第一1章

  • hccnichigo
  • 2月4日
  • 読了時間: 3分

『義と聖と贖いのキリスト』


 今日からコリント書が始まりますが、少しこの手紙の背景を学びましょう。パウロはアテネのアレイパゴスでの伝道が失意の中に終わった後にコリントに来て伝道しました、それは紀元50年の秋から52年の春までです。その間に、主から恐れないで語り続けなさいとの言葉を頂き、自分と同じ天幕造りの職人であったプリスカとアクラという夫婦も暖かく彼を迎え入れてくれたので、長く滞在することができたのです。

 

 しかし、コリントは港町で栄えていたものの、遊興の町で乱れた町だったようです。そしてこのコリントの教会、派閥に走ったり、仲間割れがあったり、とにかく内部に課題が多い教会だったようです。これは2千年前の教会に限ったことではなく、今でも同じような問題を抱える教会もあるわけです。そのような内部の問題をきいた使徒パウロ、心配になったのでしょう。すでにコリントを離れてしばらくした、紀元55〜56年頃にエペソから、問題の多いコリントの教会に送ったパウロの手紙がコリント人への手紙なのです。どうやら最初に送った手紙は紛失してしまって、この第一の手紙は実は、パウロが書いた2番目の手紙であるという事が内容からやがて分かります。しかし、残っている手紙で一番古いので、第一の手紙としているのです。


 第1章でくりかえされることばは、キリスト・イエス。 最初にキリストと呼ぶ時には、主が救い主、油注がれたメシアであることを強調していて、イエス・キリストと呼ぶ場合には、人の子として来られたヨシュア、イエスを強調しているようです。


 自分の目が留まったのは、30節「しかし、あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。」ここには神の奥義が示されていると思ったのです。私たち人間を救うための神の知恵、私たちが思いもしなかった、神の御子を十字架にかけるという、驚きの展開は、確かに神の知恵でありましょう。ヘブル書には、モーセの律法を初めの契約と呼んで、このい契約が成立したのは、子牛と雄やぎの血を民全体にふりかけて成立した、新しいイエスによる契約も、それは律法と同じように遺言であって、遺言が有効になるのは、遺言者が死んでからであって、イエスはご自分の血によって、この新しい契約に効力を持たせた(ヘブル書9章)実にこれが旧約聖書の律法が詳しく説明されている理由、神の知恵なのかもしれません。


 キリストによって聖なる者とされ、恵みが与えられ、豊かな者とされ、証人となり、もう一度キリストが約束されたように、現れる日を待ち望み、それまで同じ心で一つになれるのです。それはキリストが神の知恵であって、キリストに神の義が表されて、聖なる方として私たちすべての人間の罪を赦されるために贖いのいけにえとなられたというパウロの、コリント教会を心配しながらも、神の奥義を伝えておりますこのコリントの手紙は、私たちの現代にも問いかけられている質問でもあります。

私たちは、証人として生きていますかと使徒パウロに問いかけられているようです。


祈り

 キリストに在って、豊かな者にされたことを心から感謝いたします。まだまだ、不完全で、足りない者ですが、主イエスと会う日を待ち望んでおります。アーメン

文:森 宗孝


 
 
 

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