2025年12月31日 イザヤ書21章
- hccnichigo
- 12 分前
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13章から22章は、読解するのに難解な箇所が続きますが、これらの章には、諸国への宣告が記されています。この21章では、バビロン、ドマ(エドム)アラビアに対する宣告が記されています。
「倒れた。バビロンは倒れた。その国の神々の、すべての刻んだ像も、地に打ち砕かれたと。」(9)
超大国のバビロンでさえ倒れるという、神の公正と義が現わされています。それにしても、このような預言を語らなければならないイザヤの気持ちはどのようなものでしょうか。
他人事のように機械のように語るのでしょうか。無感情で無表情で語るのでしょうか。諸国に対する怒りや侮蔑、嘲りのような思いで語るのでしょうか。
3節には「それゆえ戦慄が私の腰に満ち、子を産む時のような苦しみが私をとらえる。私の心は乱れて、聞くことができない。」と記されています。
イザヤは、恐れて苦しみ心乱れているのです。神のことばを語るということは、神の心を感じとることになります。生身の人間であるイザヤにとってそれは大きな負担なのです。
しかし、それでもイザヤは神のことばを語ります。少し早いですが、イザヤ40章以降、預言の内容がガラリと変ります。救いと希望を語り始めます。その時イザヤは、どんな気持ちだったでしょうか。神の裁きの宣告を語ることで終わらず、その裁きの先にある救いについて語るのえす。43章4節で「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」と語った時、イザヤの口は震えていたのだと思います。
神の裁きは、救いのための裁きです。諸国への宣告を読みながら、改めて神の救いの確かさを思いました。
天の父なる神さま
神の公正と正義の前で、私たち罪人は震えおののきます。しかし、そんな私たちのために、神は救い主イエスをお与えくださいました。
このイエスの福音をこれからも宣べ伝えることができますように力をお与えください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン 文:関真士

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