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2025年12月17日 イザヤ書7章

  • hccnichigo
  • 12 分前
  • 読了時間: 2分

 南ユダ王国に対して北イスラエル王国がアラム王国と同盟を結んで攻めて来るという知らせがアハズ王に届きました。その時、アハズ王の心は「林の木々が風に揺らぐように揺らいだ。」(2)のです。


 その時預言者イザヤに主の命がくだり、アハズ王に預言をするように導かれます。しかしアハズ王は、水源地にいるのです。なぜか? 戦いにおいて水源を取られたら負けです。そこは重要な防衛拠点なのです。そこにアハズ王がいるということは、彼の心がパニック状態にあることを現わしています。


 その王に対してイザヤは神のことばを語ります。「気を確かに持ち、落ち着いていなさい。恐れてはならない。」(4) 続けて、この戦いに負けることは決してないと言われるのです。

 それを聴いてアハズ王は、安心したのでしょうか? いいえ、彼はそれでも信じることが出来ないのです。そこで神は「主に、しるしを求めよ」(11)と言われるのですが、アハズ王は「私は求めません。主を試みません」(12)と答えます。この答えは信仰のことばではなく、諦め、投げやりのことばです。


 そんなアハズ王に主は答えられました。

「それゆえ、主は自ら、あなたがたのために一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」(14)

 これはメシヤ預言です(マタイ1:22,23)。


 イエスは「神が共にいる(インマヌエル)」というお方です。アハズ王のように、神を求めることさえも諦めている者に、それでもなお「神は共にいる」という、神の真実をそこに現わしたのです。

 神が人となってこの地に来られた出来事は、神が人と共にいることの確かな証なのです。


「神などいない」という世界に、それでも「神は共にいる」ことを歴史の事実として、出来事として現わしてくださったのが、イエスの降誕の意味なのです。

 


 天の父なる神さま

インマヌエルなる主よ。あなたの臨在を感謝します。どんな中にあっても、たとえ私たちの方があなたを見失ったとしても、あなたはそれでもなお、共にいてくださるお方であることを感謝します。この待降節のとき、いよいよ、あなたの臨在を知る者としてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン                                           文:関真士



 
 
 

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