2025年12月16日 イザヤ書6章
- hccnichigo
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『私がおります』
神の愛が、その広さ、長さ、高さ、深さにおいてどれほどであるかとエフェソ3:18にありますように、聖なる神は完全なるお方なので、このイザヤ6章には聖名3称「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主」と呼ばれるわけですが、この聖なる神から、イザヤは聖召を受けた時の様子がここにあります。
イザヤは南ユダの出身で、エルサレムで恐らく20代の頃から約60年にわたり、ウジヤ王からはじまりヨタム王、アハズ王、ヒゼキア王までの長きにわたり預言者として仕えて、ユダヤは契約の民であるからその責務を果たせと、まずは同世代へ語りかけ、そして次世代の民にも語っております。その預言者であるイザヤが、聖召をうけた、ここに私がおります。私を遣わしてくださいと手を上げた時のことをこの6章では語っているのです。
彼は預言者とはいえ、罪人の一人でしたから、まず初めにセラヒィムに唇をきよめられました。そうしてまず、イザヤの罪と咎は赦されたとあります。その上で、ユダヤの民への不思議な使命を与えられます。9節「すると主は言われた。『行って、この民に告げよ。聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』と」ユダヤの民への悔い改めのメッセージではなく、立ち返って癒されることもないように、という不思議な使命であります。これはウジヤ(アザルヤ)王が死んだ年とありますので、紀元前740年頃の出来事だと思われます。イザヤは預言者として、南王国ユダにも北王国イスラエルにも神のことばを伝えた者です。そして確かに、北王国の王たちは、神に立ち返ることがなく、偶像礼拝を続けて、心で悟ることがありませんでした。
イザヤは11節で主に対して、いつまでですか? いつまで民の耳を遠くし、目を固く閉ざせ、悔い改めで癒されることもないようにされるのですか?と聞いているのだと思います。北王国には、イスラエルの12部族のうち、10部族が北であり、南にはユダ族とベニヤミン族で成り立っていました。そうして、イザヤの問いに、主が答えておられます。町々は荒れ果て、主が人を遠くに移し、この地が見捨てられる、これはアッシリアに滅ぼされる北王国への預言でしょう。しかし、その切り倒された切り株から、聖なる子孫がでてくるとの希望的みことばも重ねて主はイザヤに伝えました。
祈り
聖書は、すべての者は罪人であると語ります、その罪人の一人である私の唇も心も、罪と咎を赦すことのできる主イエスを信じることは、喜びです。私も「私を遣わして下さい」と言いたい思いはありますが、その言葉の恐ろしさにひるんでしまいます。そのような弱い心をいたわって、育てようとしてくださる主イエスに感謝します。
アーメン
文:森 宗孝

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