2025年12月15日 イザヤ書5章
- hccnichigo
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『酸いぶどう』
聖なる民となるべきイスラエルの家は、ぶどう畑と呼ばれたり、いちじくの木、オリーブの木とも比喩されている。主なる神は、良いぶどうを植えた、それもよく肥えた土壌を掘り起こして、石を取り除き、この聖なる民の成長を心待ちに待ったのに、出来上がった実は、美味しいぶどうではなくて、期待外れの酸いぶどうであったと、主なる神に反逆し、偶像礼拝に陥ってしまっている民に対して、預言者イザヤを通じて批判しているのです。やがて、律法の心から離れてしまって、宗教指導者たちは、自分の都合の良いように律法を解釈したりして、律法をどのようにすれば守れるかという戒律にしばられてしまいます。
そして、本当の救い主の神の御子である主イエスを十字架刑までかけてしまう。聖なる民となるべく用意されていたぶどう畑に、酸いぶどうとなってしまったと嘆いているのでした。
どうでしょうか、私たちもイスラエルの民と同じように、律法主義的な、間違えを犯してはいないでしょうか。最近、教会内でするべきでないゲームについて多くの方が意見されたりしています。日本の教会でも、教会とはこうあるべきである、という固定観念が強く、若い世代の者たちから敬遠されてしまっています。教会は公民館ではないから、教会ですべきこととは自ずから異なる、確かにそうかもしれません。しかし、歴史的に見ると、教会はまさに町の中心にあって、町の公民館としての役割を果たしていたのです。つい最近まで、教会の賛美に、ピアノ以外の楽器、たとえばドラムなどを持ち込むのはもってのほかといった意見があったのです。今は、誰もドラムセットがあっても、讃美歌を汚しているとは思わなくなったのではないでしょうか。私たちの教会は、何よりもまず公民館であるように、あらゆる階層、異なった世代、宗教観の違いに拘らず、人を惹きつける、良いぶどう畑であれば、その中でやがて、主イエスを信じる者たちが起こされて、一緒に賛美するようになると想像するのは間違っているでしょうか。何をもって本当のコイノニアとしての教会となるのか、主イエスの喜ばれることは、実際にはどのようなことなのかを求め続ける必要があります。
そうして、酸いぶどうとなったイスラエルの家に、災いが下されます。「わざわいだ」と8,11,18,20,21
そして22節にくりかえされています、この災い、30節に、「その日、その民(恐らくバビロン)は海のとどろきのように、イスラエルにうなり声をあげる。」これはきっと、バビロン捕囚を預言していると思われます。そうして歴史が繰り返されるように、ローマ軍によって、酸いぶどう畑となってしまったエルサレムは、主が涙されたように、神殿は紀元70年に崩壊し、ユダヤの民は離散の民となってしまいました。主に従うことは、私たちの中で作り上げた多数決の意見ではなく、そこに主を敬う土壌があるかどうか、みことばの種をまく機会があるかどうかが鍵となるのかもしれません。
祈り
どうか私たち、未熟な者に、主のお喜びになることは、今の世において何かと判断できる眼をお与え下さい、信者をつまづきせることは避けるべきですが、まず最初に信じていない者に、福音を伝える機会を作ることが優先されるのでしょうか、弱い心の私たちを導いて下さい。 アーメン
文:森 宗孝

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