2025年11月4日 箴言25章
- hccnichigo
- 11月4日
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『心に刺さることわざ』
箴言というヘブル語(マシャールもしくはミシュレー複数形)の原語の意味は、教訓というよりも、心に刺さる短い知恵のことば、実生活における知恵、という意味だそうです。しかし、文化が異なることで、大変理解に苦しむ表現があることも覚えておきましょう。自分が苦労したのは、21節から22節「あなたの憎む者が飢えているなら、パンを食べさせ、渇いているなら、水を飲ませよ」ここまでは、理解できます。しかし22節「なぜなら、あなたは彼の頭上に 燃える炭火を積むことになり、主があなたに報いてくださるからだ。」この箇所は、ローマ人への手紙12章19〜21節でも引用されている聖句なのです。
この要旨は、敵への報復ではなく、善によって報いる勝利として使われていることは、解るのですが、なぜ燃える炭火を頭の上におくという表現が理解しずらいですね。 列王記下6章21〜23節には、アラム(シリア)がイスラエルを攻めた時、エリシャが彼らを捕虜とした後に、王が捕虜を殺すように言いましたが、エリシャは、殺してはならない、パンと水を与えて主人のもとに帰らせなさい、と進言します。そしてヨラム王が大宴会を捕虜のために開いて、食べさせ、飲ませて帰らせたところ、それ以来アラムの略奪隊はイスラエルの地に来なくなったとあります。
古代エジプトや中東文化では、悔い改めを示す儀式として、罪を犯した者が、炭火を頭の上に載せて歩くことがあったそうです。自分の恥と悔い改めを示すためだったそうです。そう理解すると、炭火を積むというのは、けっして、言葉通りに拷問するという意味ではなく、悔い改めさせて、恥いるためと理解できました。 しかしながら、悪に対して、善をもって迎えることは至難の技であることも事実です。
昔見た映画、レミゼラブルのシーンの中で、主人公がせっかく親切にしてもらった教会の中の装飾品である金色の燭台などを盗んで逃げて、やがて捕まって教会に連れて来られた時に、教会の司祭が彼をかばって、なぜ燭台だけを持っていった、このお皿も、他の物も持ってゆくはずだったではないか、と司直の前で彼に、他の物を渡すシーンを思い出しました。悪に対して善をもって報いるとは、この司祭のような行為であろうと思い出しました。主人公は、この親切を忘れることがなかったのでした。
祈り
私たちは、果たして悪に対して善で対応することができるでしょうか?主よ知恵を与えてください、主の心である、赦しの心を自分も持つことができますように、導いて下さい。 アーメン
文:森 宗孝

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