2025年11月3日 箴言24章
- hccnichigo
- 11月3日
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『蜜を食べよ』
ユダヤ伝統社会(特に正統派ユダヤ教徒)では、幼い子供4〜5歳児に初めてトーラー(律法)を学ぶときに、ハチミツを舐めさせる慣習があるそうです。詩篇119篇103節「あなたのみことばは私の上あごになんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。」とあるように実際に律法のみことばの文字の上に、ハチミツを塗って、子供は、その文字をなぞって、ハチミツを舐めるのですが、トーラーの学びは甘い、喜びの味として、五感を通じて覚えさせるそうです。
エゼキエル書3章でも、巻物を食べると、蜜のように甘かったとも記されています。私たち異邦人にとって、律法を読む限り、これがどうして蜜のように甘いのかと不思議に思っていましますが、神のみことばは、私たちの魂にとって甘いものなのだろうと、無理やりに納得する次第です。
さて、この箴言24篇にも13〜14節抜粋「わが子よ、蜜を食べよ。知恵もあなたのたましいには同じだと知れ。」神の目に本当に良き家とは、3節「家は知恵によって建てられ、英知によって堅くされる。」とあります。神の知恵を喜び、この世の悪者がたとえ、富んでいるとしても、羨むな、共にいることを望んではならないと命じられているからです。
また、この24篇には私たちが陥りやす罪、自分自身では罪とは到底思えないことも記してあります。それは29節「彼が私にしたように、私も彼にしよう。彼の行いに応じて、仕返しをしよう」と言ってはならない。」なんとも、自分に語られているようで、確かに自分がやられたように、やり返すという考えは、ついつい、心の中に芽生えてしまう考えですね。いかに自己中心に私たちは考えてしまって、自分の義が先にきて、神の義を考えもしないことに気が付かされてしまいます。そのように、罪に陥りやすい苦い自分を見据えて、神のみことばをこころで味わいと蜜のように甘く感じるのでしょう。
祈り
まだまだ、主のみことばや戒めが、自分にとって甘い蜜のような味になるという、心の状態に到底達していない自分ですが、どうか私の魂にとって、みことばが流れる水となり、優雅な曲として流れはじめますように、私の心を整えて下さい。 アーメン
文: 森 宗孝

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