2025年11月11日 伝道者の書1章
- hccnichigo
- 2 日前
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『空の空』
日本史にでてくる、豊臣秀吉は、庶民が憧れる太閤様でした、貧しい身から出世して、天下を取るまでのぼりつめて、人の目には、栄華をきよめた一生と映るのです。しかし彼の辞世の句は「露とおち露と消えにし我が身かな浪速(なにわ=大阪)のことも 夢のまた夢」 露のように消えてしまう身よ、あの華やかな浪速の出来事さえも、いまでは、すべて夢のまた夢、という世を去る太閤様の最期の句でした。確かに私たちの築き上げた財産、知識も、喜び多かった人生も死んだら、おしまいという虚しさに溢れる辞世の句です。
今日の伝道者の有名な1章1節「空の空。伝道事は言う。空の空。すべては空。」これは確かなことでしょう。これらこの世の富は、人が自分の最期を迎える時には、その人の霊魂を満足させることは出来ないのです。
そうであれば、人生に失望すべきでしょうか。いいえ、この世において、ただ一つ空ではない者がいるのです。そこに永遠のいのちがあり、知恵が満ちあふれ、永久の宝、主イエス・キリストと十字架があり、これだけは、空の空ではないことに感謝しています。
主イエスは、この世の土台、変わる事のない岩となって下さいました。ローマ人への手紙9章33節「見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。この方に信頼する者は 失望させらるることがない。」
この伝道者の書の著者については、いろいろと詮索されていますが、やはりソロモン王であったと思います。共同訳聖書では、コヘレトの言葉とありますが、コヘレトとは特定の人の名前ではなくて、ヘブル語で、集会を召集する者、つまり伝道者という意味なのです。
さて、この一章12節でも、私はエルサレムでイスラエルの王であったと明言しているからです。豊臣秀吉、太閤様のように、人生の最善の生き方を経験した後に、自分を振り返ってみて、その虚しさに気づいたのかもしれません。13~14節では、知恵によって求めたけれども、すべては空しく、風のようだと空虚感が漂います。しかし、この書は悲観的な書のように見えますが、実は文脈を追ってゆくと、やがて行き着く結論は、人生の大きな意味は、実は神の審判と来世への希望に繋がるというところに行き着くのです。けっして人生悲観論ではなくて、現世に対して、人生を自分だけのものとして生きると、それこそ空の空となることに目を正面から見据えておいて、やがて神のみこころが全てである結論に向かおうとしていることを覚えながら、伝道者の書を読みつづけましょう。
祈り
私たちの人生の歩みの中で、時には自分の人生に意味があるのだろうかと悩むこともありますが、たとえ親も亡くなり、愛する者も失っていて一人ぼっちになったとしても、私たちには、心の中に常に微笑んでくれ、暖かさを与えてくれる、主イエスの霊、聖霊が内住してくださることに心から感謝いたします。アーメン
文:森 宗孝

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