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2022年9月6日 ディボーション

  • hccnichigo
  • 2022年9月6日
  • 読了時間: 4分

エレミア書42章


『主の道から迷い出させるのは恐怖心』


 どうして神に選ばれた民であるユダヤ民族が、その歴史においてなぜこのように次々と試練と恐怖に遭うのだろうか。単に不信仰のためとか偶像礼拝の結果と決めつけるには余りにも激しい神の裁きではないだろうか。聖書には、主の愛はどれほどの広さ、長さ、高さ、深さであるかを知りなさい、それは人知を超えた愛であるとありますが、ユダヤ民族の患難の歴史を見ると神の厳しさ、激しさだけしかイメージに残らない神の裁きの厳しさです。


 神の裁きでなぜか海を連想しました。聖書には海は象徴的に異邦人、罪、恐れなどを代表するようです。自分は長く船会社の営業の仕事をしていた関係で、よく顧客を連れてコンテナ船見学をしながら船長や船員たちと話す機会がありました。

 今では、昔に比べて船の大きさも4倍以上の1万数千個搭載のコンテナ船が運行されています。しかし乗り込んでいるのはたった20人前後の船員たちです。定期船ですから決められた日程を維持するのが大変で、今は港湾関連の混雑でスケジュールは維持できていませんが、太平洋の荒い気候を航行するのは特に大変です。気象状況を衛星通信で確認しながら航路を選ぶのですが、どうしても避けられない嵐にぶつかる場合もあるのです。

 船長によるとそんな時が腕の見せ所でアルーシャン列島の島のか陰に隠れるようにして台風を避けたりする事もあると船長は言っていました。

 あの巨大な船が木の葉のように波に揺れる時の恐怖は大自然に対する畏れです。白波がかぶさって来て横倒しになったら大変で、実はコンテナ船はある程度の角度に傾くと、上部に積んでいるコンテナが海に落ちるようになっていて船の復元を助けるので、実は毎年相当なコンテナが落ちて海の底に沈んでいるのです。


 主の愛は大海原のごとく広く、深い愛です、穏やかで波が無く、地平線に夕陽が沈む姿をコーヒーを飲みながら船のデッキから眺めるのは格別ですが、同じ海が一転して、ちょうどガリラヤのプロの漁師である弟子達が突然の嵐に見舞われて大慌てで主イエスを起こしに行ったように大自然はあっという間に怒りの嵐となるのです。主の愛は、悔い改めを拒否する者たちには大嵐となってうちかかり、人は恐怖のあまり凍りつきます。人は主の愛の深さ、広さを穏やかな海のようにしか理解しませんが、大自然の嵐の波も主の愛の現れではありませんか。


 エレミア42章11節「あなたがたが恐れているバビロンの王を恐れるな。彼を恐れるなー主のことばー。わたしがあなたがたとともにいて、彼の手からあなたがたを救い、助け出すからだ。」

 主イエスは弟子たちが恐れ慄くガリラヤ湖の嵐を一瞬のうちに叱りつけ宥めました。ヨナが神様に逆らって本来行くべきニネべと反対のタルシシュに向かう船に大嵐をもって裁きながらもヨナを救い、神への誓いを果たさせました。救いは主のものと解らせるためでした。我々の恐れは主の道から外れて迷う原因となるのです。

 20節「あなたがたは、自分たちのいのちの危険を冒して迷い出てしまったからだ。あなたがたは私をあなたがたの神、主のもとに遣わして、『私たちのために、私たちの神、主に祈り、すべて私たちの神、主の言われるとおりに、私たちに告げてください。私たちはそれを行います』と言ったのだ。」

 ところが私達は神のみことばに従いますとエレミアに言ったにもかかわらず、自分たちにとって都合の悪い神託・エジプトに行って寄留してはならないとのみことばを受け取ると180度態度を変えて、そんなはずは無いとなってゆくユダヤの民は我々人間の姿を表しているようです。

 目の前に迫る恐怖に、私たちはすくんでしまい、主の示される道から迷い出てしまう羊の群れのようです。どうかそのように弱い私たちを憐れんでください、あなたの道からそれないように私たちの手を握り続けていてください。


祈り

私は何のために生きているのだろう、何を喜びとしたらよいのだろう

そのような闇に座している私を主は光の中に導いて下さいました。

あなたのような神が、ほかにあるでしょうか

私がへりくだって、誠実を愛し、従順に歩むことができまうように

私が主の示される道に喜びをもって歩めますように! アーメン


 
 
 

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