top of page
Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

【お知らせとお願い】
​ メールアドレスを登録して頂ければ、
 新規ブログ更新毎にお知らせメールが届きます。​
 この機会に、是非、ご登録をお願い致します。​

ご登録ありがとうございました

 *登録の手順) アドレス入力 → 「>」を押下

 27章は人と人との間に関わる知恵のことばが書かれています。私たちにとってどの言葉も馴染み深く、心の奥深くしっかりと刻みつけていきたいものです。


9節(抜粋)「友の慰めは自分の考えにまさる。」


 苦しみ、悲しみの人生の危機感に陥ったときに友の慰めほどありがたいものはない。それはまた、自分がその経験をしたときによくわかる。自分が慰めてほしい時に信頼する友からの慰めほど心に温かいぬくもりがつわってくるものであります。その慰めの達人と言えば、やはり、イエス様以外に他はいないでしょう。イエス様に出会えて、十字架の愛を知った時に他者への慰めを知ることができました。多くの言葉はいりません。ただ寄り添ってあげる、ハグするだけでいい、聞いてあげるだけでいい。作者が語っているように、友からの慰めは大変貴重なもので、自分の考えなんてとても値するものではないということです。


10節(抜粋)「近くにいる隣人は、遠くにいる兄弟にまさる。」


 別の言い方をすれば、「遠くの親戚よりも近くの他人」のほうが親しみがあるのだと思います。殆どの人がそれぞれの近隣は他人だと思います。私も近隣の人たちはみな他人です。何か助けを必要とするときには、やはりまずはお隣さんだと思います。遠くの親戚に連絡しても到着する距離、時間などを考えたときには隣の他人さんには勝てません。そこから、私たちへの教訓は、隣人との平和を保ち、愛し合っていくことの大切さが語られています。ちなみに、阪神・淡路大震災のときに、煉瓦の中から救い出された人々の九割が近所の人たちによるものだったそうです。近隣の人たちと平和を保つ、仲良くしていることの大切さがここにあります。


17節「鉄は鉄によって研がれ、人はその友によって研がれる。」


 私たち人間はみな違う考え方を主からあたえられています。自分を成長させていくには友が必要です。自分の持っている考えを他者に、そして、他者の持っている考えを自分にとお互いが共用することによってそれぞれが成長していきます。でも、お互いがその人格を保ち続けていくには、主に在って常に相手を尊敬し、謙遜な気持ちになっていくことが大事だと思います。


「あなたのみことばは 私の足のともしび 私の道の光です。」詩篇119:105

 

 天の父なる神様。今日のみことばがいつも私たちの心の糧となって、日々聖霊に満たされた義なる信仰生活へと歩ませてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


 

 箴言の中で度々述べられている「愚かな者」とは、一言で言うなら、神を恐れて礼拝する生き方をしない者のことであります。これは、箴言全体を貫いている主題であります。


 26章では、「愚かな者が口にする箴言は」ということが、7節と9節で繰り返し語られています。そして、それは、「足の萎えた者の垂れ下がった足」であったり、「酔った人が手に取り上げる茨」というものに例えられています。いずれにしても、「愚かな者」の生き方をしている以上、その口から語られることばは、良いものを生み出さないことがわかります。「愚かな者は自分の愚かさを繰り返す」と11節で語られている通りであります。


 また、26章では、「愚かな人」のより具体的な姿として、「陰口をたたく者」ということをはじめとした、心の中で思い巡らすことと、実際に人の見えるところで口にする言葉が違う人の姿が語られているのを見ることができます。


燃える唇も、心が悪いなら、質の悪い銀を塗った土の器。」(23節)

憎んでいる者は、唇で身を装うが、心のうちに欺きを潜めている。」(24節)

声を和らげて語りかけてきても、信じるな。その心には七つの忌み嫌われるものがある。」(25節)

憎しみはうまくごまかし隠せても、彼の悪は集いの中で現れる。」(26節)


 これらは全て、神ではなく人に気に入られようとして、燃える唇を行使したり、人を自分の意のままにするために、心で考えていることと逆のことを唇に語らせてみたり、自分の内面に潜む忌み嫌われるものを知りながら、声を和らげて良い人のふりをして人に取り入ろうとしたりする「愚かな人の姿」ではないかと考えられます。

 ここに表される「愚かな人」は、人に気に入られること、人の自分に対する評判を得ることが、人生の最大のテーマであると言っていいのではないでしょうか。裏を返せば、人から嫌われること、人の信頼を失うこと、人の自分いたいする評価が低下すること以上に、怖いことはないと考えている人と言い換えてもいいと思います。

 一方で、自分が神から失望されたり、神の信頼を失ったり、神の怒りを招いていることなど、少しも考えたことのないかのような姿でもあるように思います。「神は愛なのだから、なんでも許してくれる。」そのように、神の愛を履き違えている姿と言ってもいいのかもしれません。


 イエス・キリストを自らの神・主であると受け入れた者には、聖霊が与えられているはずです。その聖霊が、私たちの心に住んでおられ、神を恐れ礼拝する生き方へと、いつも私たちを導こうと働いておられます。その聖霊の働きかけと、神の導きと招きに対して、信仰によって応答する私たちの生き方が共に働いて、私たちはキリストに似たものへと造り替えられていきます。

文:中川祐真


 

『心に刺さることわざ』


 箴言というヘブル語(マシャールもしくはミシュレー複数形)の原語の意味は、教訓というよりも、心に刺さる短い知恵のことば、実生活における知恵、という意味だそうです。しかし、文化が異なることで、大変理解に苦しむ表現があることも覚えておきましょう。自分が苦労したのは、21節から22節「あなたの憎む者が飢えているなら、パンを食べさせ、渇いているなら、水を飲ませよ」ここまでは、理解できます。しかし22節「なぜなら、あなたは彼の頭上に 燃える炭火を積むことになり、主があなたに報いてくださるからだ。」この箇所は、ローマ人への手紙12章19〜21節でも引用されている聖句なのです。


 この要旨は、敵への報復ではなく、善によって報いる勝利として使われていることは、解るのですが、なぜ燃える炭火を頭の上におくという表現が理解しずらいですね。 列王記下6章21〜23節には、アラム(シリア)がイスラエルを攻めた時、エリシャが彼らを捕虜とした後に、王が捕虜を殺すように言いましたが、エリシャは、殺してはならない、パンと水を与えて主人のもとに帰らせなさい、と進言します。そしてヨラム王が大宴会を捕虜のために開いて、食べさせ、飲ませて帰らせたところ、それ以来アラムの略奪隊はイスラエルの地に来なくなったとあります。


 古代エジプトや中東文化では、悔い改めを示す儀式として、罪を犯した者が、炭火を頭の上に載せて歩くことがあったそうです。自分の恥と悔い改めを示すためだったそうです。そう理解すると、炭火を積むというのは、けっして、言葉通りに拷問するという意味ではなく、悔い改めさせて、恥いるためと理解できました。 しかしながら、悪に対して、善をもって迎えることは至難の技であることも事実です。


 昔見た映画、レミゼラブルのシーンの中で、主人公がせっかく親切にしてもらった教会の中の装飾品である金色の燭台などを盗んで逃げて、やがて捕まって教会に連れて来られた時に、教会の司祭が彼をかばって、なぜ燭台だけを持っていった、このお皿も、他の物も持ってゆくはずだったではないか、と司直の前で彼に、他の物を渡すシーンを思い出しました。悪に対して善をもって報いるとは、この司祭のような行為であろうと思い出しました。主人公は、この親切を忘れることがなかったのでした。


祈り

私たちは、果たして悪に対して善で対応することができるでしょうか?主よ知恵を与えてください、主の心である、赦しの心を自分も持つことができますように、導いて下さい。 アーメン 

文:森 宗孝


 
bottom of page