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2025年11月5日 箴言26章

  • hccnichigo
  • 4 日前
  • 読了時間: 3分

 箴言の中で度々述べられている「愚かな者」とは、一言で言うなら、神を恐れて礼拝する生き方をしない者のことであります。これは、箴言全体を貫いている主題であります。


 26章では、「愚かな者が口にする箴言は」ということが、7節と9節で繰り返し語られています。そして、それは、「足の萎えた者の垂れ下がった足」であったり、「酔った人が手に取り上げる茨」というものに例えられています。いずれにしても、「愚かな者」の生き方をしている以上、その口から語られることばは、良いものを生み出さないことがわかります。「愚かな者は自分の愚かさを繰り返す」と11節で語られている通りであります。


 また、26章では、「愚かな人」のより具体的な姿として、「陰口をたたく者」ということをはじめとした、心の中で思い巡らすことと、実際に人の見えるところで口にする言葉が違う人の姿が語られているのを見ることができます。


燃える唇も、心が悪いなら、質の悪い銀を塗った土の器。」(23節)

憎んでいる者は、唇で身を装うが、心のうちに欺きを潜めている。」(24節)

声を和らげて語りかけてきても、信じるな。その心には七つの忌み嫌われるものがある。」(25節)

憎しみはうまくごまかし隠せても、彼の悪は集いの中で現れる。」(26節)


 これらは全て、神ではなく人に気に入られようとして、燃える唇を行使したり、人を自分の意のままにするために、心で考えていることと逆のことを唇に語らせてみたり、自分の内面に潜む忌み嫌われるものを知りながら、声を和らげて良い人のふりをして人に取り入ろうとしたりする「愚かな人の姿」ではないかと考えられます。

 ここに表される「愚かな人」は、人に気に入られること、人の自分に対する評判を得ることが、人生の最大のテーマであると言っていいのではないでしょうか。裏を返せば、人から嫌われること、人の信頼を失うこと、人の自分いたいする評価が低下すること以上に、怖いことはないと考えている人と言い換えてもいいと思います。

 一方で、自分が神から失望されたり、神の信頼を失ったり、神の怒りを招いていることなど、少しも考えたことのないかのような姿でもあるように思います。「神は愛なのだから、なんでも許してくれる。」そのように、神の愛を履き違えている姿と言ってもいいのかもしれません。


 イエス・キリストを自らの神・主であると受け入れた者には、聖霊が与えられているはずです。その聖霊が、私たちの心に住んでおられ、神を恐れ礼拝する生き方へと、いつも私たちを導こうと働いておられます。その聖霊の働きかけと、神の導きと招きに対して、信仰によって応答する私たちの生き方が共に働いて、私たちはキリストに似たものへと造り替えられていきます。

文:中川祐真


 
 
 

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