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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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 11章はヨブの言葉に対しての友人ツォファルの応答だ。ツォファルら友人はあまりに悲惨なヨブの状態に声を上げて泣き、七日七夜地に座るだけでヨブにどんな言葉がけもすることができなかった。それほどまでにヨブの痛みに寄り添い、共に痛み悲しんでくれた。


 それまでヨブは、すべての子供を一度に失っても、「私は裸で母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」と神様を賛美し、頭の先から足の裏まで悪性の腫物で打たれ、妻に「神を呪って死になさい」などとひどいことを言われても、「私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいも受けるべきではないか。」などといっていた。これらのことばは、自分の感情にあえて蓋をし、感じないようにしているように思える。いや、神様こそ神様なんだと神様のなさることに、ただ信頼したいというヨブの心の表れなのかもしれない。


 そのヨブが共に悲しんでくれる友を前に、自分の感情を少しずつ吐露し始めた。すると、この思いやりあるはずの友人たちがヨブに説教を始めるのだ。心を許したからこそ、彼らのことばはヨブの心に、なお深く矢のように突き刺さったことだろう。


 この11章のツォファルの言葉は、友としての哀れみも愛情も感じられない厳しい口調で始まる。ヨブの溢れる嘆きを「無駄話」などと言ってしまう冷たさは何だろう。あの最初の七日七夜の心はどこにいったんですか?と聞きたくなるほどだ。私がヨブなら、子供も奴隷も、そして親友と信じていた友までも失っていたのかと思うと思う。


 古代イスラエルでは、病気や災害は罪の結果と考えることが多かったそうだ。ヨブは、罪というものにとても敏感で、罪を犯さないようにと注意深く生きてきた人だったと思う。だからこそ、止むことのない苦しみの中で戸惑い、絶望していた。ツォファルはわざわざヨブの災難を聞きつけてやってきてくれたのだから、親友だと思うのだ。だからヨブがどのように生きてきたか知っていたはずだ。「そうだよ、君は本当によくやっていた。」と言ってくれてもよさそうなものなのに、ヨブに隠れた罪があるはずだと決めつけて語り、独善的に自分の考えを押し付けてくる。


 友人たちとヨブのやり取りを通して、状況を勝手に理解して自分の意見を述べることの危うさを思った。愛する友を少しでも支えたいと思う時、その苦しみ、悲しみに寄り添い、ともに祈れたらと願う。


天のお父様 今日のみことばを感謝いたします。すべての苦しみは罪からくるという間違った理解から、また、自分の考えは正しいという思い込みから、大切な友達をさらに傷つけてしまうという悲劇を見ました。自分の経験や知識から、自分の考えが絶対と思い込むことがありませんように。痛み苦しむ人に教えようという誘惑に陥りませんように。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン


 

『構わないではいられない神』


 次の章で「神の奥義」が語られるが、この章でヨブは「自分はなぜ苦しい目に遭うのだ?私は生まれてこなければ良かったのに」と嘆きと悲しみを神様にぶちまけている。


 私はホスピス患者さん達をケアしたことがある。20節と似たようなことを口にする人が多い。


20節 私の生きる日はわずかなのですか。

   それならやめてください。

   私にかまわないでください。

   私はわずかでも明るくふるまいたいのです。


 または「早く死にたい」。クリスチャンのホスピス患者さんでも「早くイエス様が天に呼んでくれないかな」と言われた。


 それほど、この世で生きていくのは患難が沢山ある、昔も今も。

 先週の江崎先生のメッセージにもあったが、父である神は私たちを愛してやまない。苦難は神の道への鍛錬、教育として証して下さった。「バカな子ほどかわいい」と私は信じている。


詩篇 139:8

 たとえ 私が天に上っても

 そこにあなたはおられ

 私がよみに床を設けても

 そこにあなたはおられます。


 父なる神様はかわいい子供達(私たち)を放っておけないようだ。


 ヨブのように自暴自棄になって、神に文句をガンガンぶつけようとも、神様はそばにいて聞いてくれて、「勝手にしろ」とか言って離れたりしない。だから私は心配しないことにした。私が「放っておいて!」と言っても放っておけない神様だから。構わずにはいられないのだから。


天の父なる神様、

 十字架で死なれたキリストは墓に葬られ3日後に復活されるまで「陰府」まで降りて行かれた(使徒信条)。そうまでして、私たちを救って下さった。感謝します。より多くの人が救われますように。イエスキリストの御名により祈ります。アーメン

文: マッカーター政子



 

「私たちは二人の上に手を置く仲裁者が、私たちの間にはいません。」33節


 ヨブがシュアハ人ビルダデに対しての応答が記されている中で、心に留まったのは 33節の二人の上に手を置く仲裁者がいないというところです。文脈を通して語られた ことは、ヨプは罪をおかしていません。いくら二人の友人たちに罪があるからと言われ てもヨプにとっては納得がいかなかったと思います。ヨブの求めているものは、どうや ったら自分の潔白を神に訴えることができるのかということでした。旧約の時代に生き たヨプにとっては、仲裁者がいないことがとてももどかしかったことでしょう。


 真の仲裁者は神以外は存在しないと思います。余談になりますが、例えば、弱者が自 分の潔白を証明するときに、仲裁者が強者によって地位や名誉、あるいはお金を握らせ られた時にどうでるかも考えられます。人はみな弱いものです。嘘の発言をして弱者の 潔白を踏みにじることもあります。それが私たち人間の世界です。私たちが弱者と強者 の仲裁者になった時に双方の言い分を正しく聞き入れることができるかどうかが問われ るところではないでしょうか。


 新約の時代に生きる私たちは、イエスさまが私たちと神さまとの仲裁者となってくだ さり、今も弱い私たちのためにとりなしてくださっておられるのです。これは、大きな 恵みであります。もしも、ヨブが新約の時代に生きていたらイエス・キリストを通し て、自分の潔白を父なる神に訴えることができたのではないかと思わされます。


 11 節の御言葉が大変心に響きました。


「神がそばを通り過ぎても、私には見えない。進んで行っても、気づかない。」


 どういうことかと言うと、辛い時ほど、見えない。しかし、本当はそばにおられる、 という。人間の弱さが神を見えなくさせるということです。自分もその経験をしたこと があるゆえにその御言葉はとても心に深く留まりました。


ハレルヤ!


主の御名を心からほめたたえます。


 このような弱い者のために、イエス・キリストを天の父なる神さまとの仲裁者としてくださったこと、そして、今も私たちのためにとりなしておられることを心から感謝しま す。私たちも人の仲裁者になった時にイエスさまのことを覚えて正しいことを述べることができますように助けてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈 りします。アーメン


 
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