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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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 この章では二つの文章に目が留まりました。「傷ついた者のたましいは助けを求めて叫ぶ。しかし、神はその愚痴に心を留められない。」(12節)と「しかし、神は力をもって、暴虐な者たちを生きのびるようにされる。」(22節)いつくしみ深き神は助けを求める者の声をお聞きになり、正しい神は悪者をその義をもって裁き懲らしめるのが正常だと信じている一般の私たちにとっては、簡単には受け入れがたい二聖句だと思います。


 ヨブ記24章は「なぜ、全能者によって時が隠されていないのに、神を知る者たちがその日を見ないのか」と言う聖句で始まります。この「時」というのは裁きの時のことですが、そのような時が実際にあるようには思われないこの世界の様相は、どういうことなのかと信仰さへ捨ててしまいそうですが、ヨブは神への信頼を持ち続けます。23章11節に彼が語っている通りです。「私の足は神の歩みにつき従い、神の道を守って、それなかった。」


 世の中の物事の多くは、一部の強欲な者たちの利益のために動かされているであって、その結果沢山の虐げられた人々、哀れな人々がいるというのがヨブの見解であり、現在の私たちも同感するところです。不当に扱われている人々、ひどい目にあわされている「荒野の野ろば」のような「哀れな人々」で溢れているのに、そのような人々に対して神は無関心で、その情けが少しも感じられない。それでもヨブは不信仰にはなりませんでした。


 ヨブは、そういう腐敗した世の中の状況を知りながらも、それに染まることなく、神を信頼し、神にあって正しい生き方を貫いたようです。そして、ヨブ記の最初に語られた彼が遭遇した大変な不幸にもかかわらず、三人の友人たちの非難の前で、彼は神への信頼を投げ捨てることはしませんでした。


 「しかし、神は力をもって、暴虐な者たちを生きのびるようにされる。」とは我々の意識する神の義とは違っているので、不信仰に陥りそうです。しかし、「彼らはしばらくの間、高められるが、消えうせる。彼らは低くされ、他のすべてのものと同じように刈り集められる。麦の穂先のように枯れてしまう。」とある通り、やがては普通の人たちと同じように、滅びてしまうのです。この世のことは単純な人間的な因果応報論では説明できないことが分かります。


 ヨブは自分のおかれている不幸な状況のことで神を恨むことなく、ある教理とか理論とか感情に基づいた目で、主観的に世の現実を観察するのではなく、まるで科学者が現実を客観的に観察するのと同じように現実を語ることによって、この世のすべての現象の裏には神の御手が働いていることを指摘していると思います。そういう風に客観的に観察して得た世界観を通して、この世の物事を見せられるとき、すべてのことの背後には神の御手の働きのあることを誰もが認めざるを得ないのではないでしょうか。



愛する天のお父さま、今日の御言葉を感謝します。私たちの人生で経験する物事の中には、主の語られる法則とは必ずしも同調しない場合が多々あります。しかし、そんな場合でも、主が背後で操作されておられるのだから、すべては神にとっても、また私たちにとっても益となることを信じます。イエス様の聖名によってお祈りします。アーメン 


 

 今日もまた、私の嘆きは激しく、自分のうめきのゆえに私の手は重い。2節


 ヨブは今日も神からの応答がなく苦しんでいる。これほどまでにヨブは神に叫んでいるのに神は沈黙を守られておられるのである。友人たちからの答えではなく、ただ神からの応答を待ち望んでいるのである。イエスさまもおられない、ましてや聖書のない時代にただひたすらに神を待ち望んでいるヨブの信仰に深く考えさせられます。私たち人間が最期に求めるのは、人ではなく、ただ神の答えを待つことではないだろうか。


 いつになったら神の応答があるだろうか。それは、自分も経験したことがあります。悲しくて、辛くて、何もかもいやになりました。いつになったらこの悲惨な状態から抜けでることができるのだろうか、と悶々と日々を過ごしたことがありました。聖書を読んでも頭が空回りして、心は暗闇の中にいました。自分から聖霊さまを締め出していました。聖書の中に神の声を聞くことができませんでした。その状態が3年も続きました。3年過ぎた頃に神の御言葉があたえられました。心から主に感謝でした。


「まことに 御怒りは束の間 いのちは恩寵のうちにある。

 夕暮れには涙が宿っても 朝明けには喜びの叫びがある。」詩編30:5


 今は新約の時代で、神の答えを知りたかったら聖書を開けばいい。しかし、神の答え、神の御心を先に優先しないで、自分の力にたよりきって自分を優先してしまうと神は決して応答してくださらないことは私たちも知っていることであります。私自身にも言えることですが、聖書が与えられている時代に生きる私たちはとても感謝のことでありますが、その神の声の聖書を二の次にしてしまうことが多々にあります。物が豊かになると心も傲慢に陥りやすくなります。ヨブの、神を心から慕い待ち望む信仰のすがたは、初心に戻って神に近づくことを持ち続けることではないかということが示されました。


 ヨブから学ぶことは多くあります。彼の語る一語、一語に魂が揺さぶられる思いがします。神へ向き合う私たちの信仰のすがたが指摘される思いです。



 主の御名を心からほめたたえます。

天のちちなる神さま、今日の御言葉を心から感謝します。ヨブの神を待ち望む心をもつことができますように、私たちの信仰をつよめてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


 

「神が裁きを曲げられるだろうか。全能者が義を曲げられるだろうか。」(3)


 ヨブ記の難しさは、例えばこのエリファズのことばは正しいということです。一節一節を見ると、それぞれが正しいことを語っているように見えます。21節の「さあ、あなたは神よ和らぎ、平安を得よ。」の御言葉からの名説教を聞いたこともあります。

 しかし神は、エリファズに対して「主は、テマン人エリファズに言われた。『わたしの怒りは、あなたとあなたの二人の友に向かって燃える。あなたが、わたしのしもべヨブのように、わたしについて確かなことを語らなかったからだ。」(42:7)と語っています。

 エリファズと二人の友の何が不確かだったのでしょうか。それは、神の正しさとは何なのか、ということを考えることになります。

 神の正しさとは、律法に現わされていますが、その律法の中心は、神を愛することと隣人を愛することです。神の正しさとは、愛することに尽きます。

 どんなに正しい論理を持っていても、その正しい論理で人を裁くなら、それは正しくないことをしているのです。私たちは、正しい事を使って正しくないことをしてしまうことがあるのです。

 この22章では、エリファズは正しいことを語っています。しかし、それでヨブを裁いています。ですから彼は正しくないことをしているのです。


 ですから21章でも、23章でも、ヨブの心には、この正しいことばが響かないのです。ヨブにとって友人のことばは、1コリント13章に記されているように、騒がしいドラ、うるさいシンバルと同じなのです。なぜなら、正しい愛がないからです。

 3人の友人には、ヨブに対する愛があったと思います。最初の7日間を黙して寄り添い、そしてヨブにとことん関わっているのです。愛がなければここまで出来ないでしょう。ただ単にヨブを責めているだけではないのです。

 しかしその愛も、論争しているうちに、ヨブに対する強要に変わってきてしまいました。ヨブを説得し、分からせようと境界線を超えてしまいました。その愛は自己愛へと変質していきました。

 

 ヨブ記を通して、本当の正しさとは何かを深く考えさせられます。


天の父なる神さま

 みことばを正しく理解し、正しい知識を持ちつつ、正しく人を愛するには、どうしたらいいでしょうか。私たちが、あなたの愛と、あなたの正しさを持ち、それを正しく表現できるように、聖霊の助けを与えてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン          

文:関真士


 
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