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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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『都上りの歌』


 長い長い119篇が終わり、これから15回の都上りの歌に入ります。イスラエルの民の信仰の中心となるエルサレムに上ってゆく歌で、きっとバビロン捕囚から戻って来た民の様子が描かれているのでしょう。苦しみの捕囚の中で、主を呼び求めると、エルサレムに戻るように主が答えて下さったと言うのです。


 果たして、私たちの信仰の中心は、どこにあるのでしょうか。教会ですか、自分の故郷ですか、十字架ですか。 この詩人同様に、私たちも罪を犯し、道を間違えて、偽りの道を進んでしまいますが、どうかそこから主が救いだして、信仰の中心地であるエルサレムに導いてくださいと願っています。


 4節に「えにしだの炭火」とありますが、この「えにしだ」とは大きな木ではありませんが、これを炭にすると、ほかのどのような木よりも、火力が強いのだそうです。日本の備長炭を思い浮かべました。 そして、この場面では、このように鋭い矢と共に強い火攻めのようにされて苦しんだと言っているのです。続く5節には、あまり馴染みのない名ですが、メシェクに寄留し、ケダルの天幕に身を寄せる、とあります、このメシェクはユダヤの神を信じない異邦人の町で、一番北にある町です。そのような異邦人の所に寄留させられていた、そしてケダルとは、アラビアの砂漠ですから、そのような荒野の民に身を寄せたと、故郷に戻ることができなかったことを表しています。


 このように、異国の地で、主を信じていない異邦人との暮らしのなかで、平和を求めたのです。自分たちは平和も求めているのに、神を知らない異邦人たちは、戦いを求めていると締めくくっています。 これがなぜ都上りの歌なのかと疑問に思ってしまいますが、いかにユダヤの民が、故郷のエルサレムに戻ることを願っていたかという、証しをしながら、エルサレムに向かって行ったのかもしれません。


祈り

現代の私たちも、主なる神を畏れない、信じることができない多くの人たちの中に、寄留しています。特に日本に戻ると、物質的には豊か、食事には心がこもっているのに、自分たちの魂は乾いている、そのようなアンバランスの中で、多くの者が、魂の扉をあけて、主を知るように祈りましょう。アーメン

文: 森 宗孝


 

『みことば詩篇』


 ついに、この詩篇の中でも一番長い119篇に到達しました。ここに、それこそ、たくさん宝石のような、みことばに溢れています。私の目を開いてください、あなたのみことばを心に蓄えます、おきてを守ります、みことばとおりに私を生かしてください、あなたのおきての道を教えてください、その道を喜んで行きますから、みことばを信頼しています、みおしえを私は忘れません。


 そして71節「苦しみにあったことは私にとって幸せでした。それにより、私はあなたのおきてを学びました

105節「あなたのみことばは 私の足のともしび 私の道の光です

130節「みことばの戸が開くと 光が差し 浅はかな者に悟りを与えます

146節「私はあなたを呼び求めます。私をお救いください。私はあなたのさとしを守ります。

160節「みことばのすべては真実です。あなたの義のさばきはことごとく とこしえに至ります。」


 この119篇には、みおしえを求め続ける作者がいます。それは真理としてのみことばです。ヘブル人にとっての真理とは、私たちの考える真理、例えば科学や社会の真理ではなくて、本物は何かという真理です。しかし、そのみおしえが具体的になんであるかの解釈はありません。


 今は、偽物で世の中が溢れています。先日ToyotaからのEメールのようにして、あなたの車のメーカー保証が切れているので、連絡して下さいと連絡がきていて、近くにあったToyotaのディーラーに、そのEメールを見せたら、これは偽物とのこと。さまざまな手法でなんとかお金を稼ごうとあの手、この手で来るので、何が偽物で、何が本物か迷ってしまします。しかし、ここの真理は本物、永遠に変わらない、富む者でも、貧しい者でも変わらない真理のことを指しているのです。


 思うに、この詩篇の作者の時代、旧約時代には、はっきりした主のみことばは、律法として伝えられていたわけです。そうして石に刻まれた律法は、本物である主イエスの到来へと導いている。これは、ガラテア書3章24節にありように、「こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。」 この詩篇119編では、主のみおしえを求め、あえぎますが、それでは、みおしえが何か、戒めとさとしは何かと聞かれると十戒を指し示す意外にありません。しかし、私たちは、本物の主イエスのことばを、聖書を通じて聞くことができるようになりました。神が、どのような状況に、どのようにお答えになるかを具体的に知ることができるのです。私たちの罪をどのようにして購ってくださったか、救いが魂の救いから、永遠の身体への救いとなること、天の御国の様子も、はっきりと本物である主から、人のことばとして聞けるようになったのです。天にむかう、道もしっかりと示されました。詩篇119編の答え、説明を私たちは受けたのです。


 主イエスはヨハネの福音書14章6節「イエスは彼らに言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」


祈り

主よ感謝します、私たちには真理としての主イエスが、聖霊として宿ってくださり、天の父に行く道を教えてくださり、いのちとなって私たちの生きる道をも示してくださいました。もう何が本物かを探す必要はなく、ただ単に真理である主イエスを信じることで救いを得ることができることに感謝します。 アーメン

文:森 宗孝


 

「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。

 その恵みはとこしえまで。」1節、29節

 

 実に、全世界に出て行き大声で叫びたくなるような詩です、踊りたくなるような詩です。私たちが主に感謝する方法はいろんな表現のしかたがあり、又、それは人それぞれによって違ってきます。まず祈り、礼拝、賛美、愛すること、ゆるすこと、踊り、献金、奉仕、等々です。


 主のいつくしみ深い愛、そして、恵みは永遠に変わることのないものです。私たちは、イエス様の十字架の血潮によって救われ、永遠のいのち、聖霊があたえられました。そのことを覚える時に感謝、感謝、感謝のこの二文字以外、他はありません。


 主のもとに召された方がよく言われたことが思いだされます。         

「日曜日に礼拝にいくのがとても感謝で、幸せである。去った一週間を無事に過ごさせていただいた感謝を捧げに行くんだよ。牧師のメッセージを聴き、皆さんと共に祈ることは、主に感謝である。又、来る一週間も守ってくださいと祈れることが感謝である。」と、そのことを語っていた彼女の笑顔はまるで、主の栄光が現れたような輝きをしていました。


 御在天なる私たちの父なる神様。あなたの尊い御名をほめたたえます。私たちが捨てた石を、あなたのあわれみによって要の石としてくださったことを心から感謝します。私たちのキリストへの信頼が日々確実なものでありますように、主のなさったことを何一つ忘れずに、感謝をもって歩むことができますように導いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


家を建てる者たちが捨てた石

  それが要の石となった。」22節


 
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