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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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『主の裁き』


 主の裁き、あなたの上に終局(最後の運命 口語訳)が注がれるという、非常に厳しいみことばが6章に続いてここでも預言されています。しかし、ここで語られている裁きは、主による裁きなのですが、27節b「わたしが、彼らの行いにしたがって彼らに報い、彼らのやり方にしたがって彼らをさばくとき、彼らは、わたしが主であることを知る」あなたの生き方にしたがってあなたをさばくと言われています。


 私たちの原罪は、創世記2章にありますように、神から、エデンの園のどの木からでも思いのまま食べて良いが、善悪の知識の木からは、食べてはならないという神の掟を破ってしまった、神に反逆したことから始まるのですが、はたして善悪を知る事が悪事なのかという疑問にぶつかります。善悪を知ること、そのことは、良いことではありませんか。しかし、ここで私たちは、神の善悪という基準から外れてしまって、自分達、一人一人の考え方で自分で善悪を判断してしまうことになってしまいました。神に反逆したということは、実は狡猾な蛇の背後にいるサタンと契約を結んでしまったことになったのです。この木の実を女も夫であるアダムも食べた行為は、サタンとの聖餐式と考えられてもおかしくありません。


 このようにして、私たちは自分の判断で、自分にとっての善悪を決めつけてしまうことになったのですが、そのやり方に沿って、主なる神はイスラエルの民を裁き、イスラエルの行ったすべての忌み嫌うべきわざに報いることにされたということがこの7章には描かれています。


 イスラエルの最後の運命、その日が来るのですが、その目的は、イスラエルが本当の救い主であるのは主であることを知るために、この裁きがくだされるというわけです。この裁きの時には、祭司から律法が、長老から助言が失われるとあります。人のことばは、主の決められた最後の運命には、なんの役にも立たないのです。


 あなたがたは自分たちのために、主が忌み嫌う、忌まわしい偶像を作ったからだ。関先生のメッセージに、人が作った神(偶像)に対して、人を造った神、この「が」と「を」の違いには雲泥の差があるという説教を思い出しました。日本は人が作った神々に満ち溢れています、やがて日本も、日本のやり方にそって、裁かれてしまう運命にあるのではないかと心配です。


 しかし、この7章では示されていませんが、主なる神は聖書に裁きだけを強調しているわけではありません。同時に、救いの道をも示してくださっています、それが主イエスの十字架となるわけですが、この章では、ただ単に、最後の運命の時には、わたしが主であることを知ると、どのようにして主と知るのかは書き記されていないのです。


祈り

 私たちは、十字架による主イエスの救いをすでに、知っていることに感謝致します。確かにイスラエルの民に裁きが下ったように、この世もやがて、この世のやりかたで裁かれてしまうことでしょう。しかし、救いを知る私たちには、主イエスとの再会の喜びに溢れることに感謝致します。アーメン

文:森 宗孝 


 

『主が残された者』

 エゼキエルは、バビロン捕囚中に送られた預言者で、旧約聖書時代の黙示録とも言えるかもしれません。そしてエゼキエルの名前の通り、神は励ますことを、滅亡と祝福と共に語っています。その目的は「わたしが主であることを知る」とエゼキエル書には70回ほど繰り返されていることが鍵言葉となっています。神に選ばれた、聖なる民族となったイスラエル民族の上には、神の道を踏み外してしまうことでの処罰を受ける事と、同時に悔い改めることによる祝福が与えられます。


 申命記28章1節と15節には、この神に選ばれた民への戒めがはっきりと示されています。1節「もし、あなたが、あなたの神、主の御声に確かに聞き従い、私が今日あなたに命じるすべての命令を守り行うなら、あなたの神、主は、地のすべての国々の上にあなたを高く上げられる。」15節「しかし、もしあなたの神、主の御声に聞き従わず、私が今日あなたに命じる、主のすべての命令と掟を守り行わないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたをとらえる」イスラエルの民には、祝福か、それとものろいかの選択しか与えられていません、それは主に選ばれた民の運命なのですが、私たちも主イエスを信じて、同じように選ばれた者となっています、それはいわばイスラエル民族に接ぎ木されましたので、私たちへの掟でもあります。そしてこの掟は、律法ではなく、主イエスによっての、新しい契約、恵みの契約が私たちへの戒めとなったのです。


 ヘブル人への手紙9章15節から20節に、キリストの新しい契約を説明して、これは遺言であると、この私たちが受ける恵みは、実は主イエスの遺言で、遺言は遺言を書いた人が生きているうちには、効力を持ちませんが、亡くなった時に初めて有効となること、そしてこの新しい契約(遺言)は、イエスの血潮によって成立したのですと説明があります。私たちは主イエスの遺言を与えられた者であり、その遺言を守ることによって、約束されたものを手にすることができるというわけです。


 少し、話がずれましたが、この6章では、主の命令と掟を守らない者へののろいの恐ろしい描写がされています。イスラエルの民は、疫病でしに、剣によって倒れ、飢饉で死ぬ、町々は廃墟とされ、拝んでいた偶像は破壊されると預言しています。しかし、こののろい、裁きの中にも「生き残り レムナント」を神が意図的に残してくださる、それは偶然によるものではなく、神の意図的な選びによるとわざわいの中にも、わずかながらの希望を残される神の意志が描かれています。それは神に立ち返る者がいて、彼らが将来の回復の種となって、イスラエルの民を導きことになるからです。イザヤ書10章にも、残りの者が帰ってくるとありますし、ミカ書2章にも、イスラエルの残りの者を必ず呼び集めるとあることに感謝します。


祈り

私たち、日本人でキリストを信じる者となりましたが、まさにこれはほんのひと握りの残された者となりました。主イエスの遺言のおかげで、私たちにはやがて主と共に暮らす希望が与えられていることに心から感謝致します。アーメン

文:森 宗孝 


 

「わたしの怒りが出し尽くされると、わたしは彼らに対する憤りを収めて満足する。わたしが彼らに対する憤りを終わらせたとき、彼らは、主であるわたしが、ねたみをもって語ったことを知る。」5:13


 神の怒りが出し尽くされた時に神は憤りを終わらせられたのである。怒りと憤りが全うすれば、主はそれを静められます。その静める働きをするのが、幕屋や神殿の中では、至聖所にある贖いの蓋で、大祭司がそこに血を振り掛けて、イスラエルの贖罪を行うのですが、神の怒りが満たされることを表していたと言われていたそうです。


 余談になりますが、人は自分自身の怒りを出し尽くした時、あるいは、怒りが爆発した時には憤りはいつの間にか終わってしまって気持ちが楽になったということがあるのではないだろうかと思わされます。


 神がねたみをもって語られたこととは現代の私たちへの忠告でもあると受け止められます。また、神は8節で語られていることは、私たちへのみせしめにも受け止められると思いました。


 8節(抜粋)「今、わたしはあなたを敵とし、国々の目の前で、あなたのただ中でさばきを下す。」


 神は、イスラエルの民を見捨てられるのではなく、たて直すためにご自身の怒りを出しつくされるために、飢饉や悪い獣、疫病、虐殺を持って罰せられるのである。なぜそこまでと思うが、それは、神はねたむほどに民を愛しているからです。

 神は私たちをねたむほどに愛しておられるということをしっかりと心に刻んでおきたいと思わされるところです。


 愛する天の父よ。あなたは、私たちをどんな時にも見捨てないことを信じています。なぜなら私たちをねたむほどに愛してくださっておられるから。どうぞあなたの私たちへの愛から離れることがありませんように、日々聖霊に満たされる歩みをさせて下さい。感謝して主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン


 
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