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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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『私の愛する者』


 この雅歌、人の愛が散りばめられた詩が、どのようにして霊感に満ちた、旧約聖書に取り入れたのでしょうか。 ヘブル民族が律法を重視して生活の基準として生きる上で、雅歌がどのように理解されていたのだろうかと不思議に思うのです。 単なる恋愛文学作品ではないはずです。多くの神学者は、雅歌の求婚は、霊的に救い主と信者の集まり、今では、教会への熱烈な愛を示すと言われています。そのような視点に立って、私たちの愛する神は、人間の言葉にすれば、熱情の愛であり、他の神々、偶像礼拝をしたようなら、妬む神であると聖書は語っています。


 参考までに、エペソ5章25〜26節と32節を見てみましょう。「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい。キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり。」 32節「この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです。


 雅歌に戻り、2章では、ソロモン王の恋するレバノン山のふもとで出会った美しい娘シュラムへの、求愛、彼女は谷間のゆり花のように優雅で美しいと描いています。私は愛に病んでいるからですと、愛の告白があり、10節「私の愛する方は、私に語りかけていわれます。「わが愛する者、私の美しいひとよ。さあ立って、出ておいで」これが、主の熱情の愛につながっているのでしょうか。私たちのような罪人をどこまでも愛してくださる、すべての犠牲を払っても、ご自分の近くに呼び寄せたいという思いが、きっと私たちに対する神の愛なのでしょう。


 自分が妻と出会ったのは、すでに47年前の東京でした。アメリカ人の友人が勤める英会話学校が主催のスキーバス旅行に、人数が少ないので、お前も一緒に来るかと誘われて、集合場所に行った時に、妻を見かけたのです。そして猛烈なるアタックで、約4ヶ月後には結婚式となった思い出があります。まさに谷間のゆり、愛する美しい人のためには何でもするという求婚でした。そのような人間の気持ちが、主イエスの信者に対する、教会に対するお気持ちに近い思いなのでしょうか。


 ヨハネの黙示録21章の新天新地の場面で、9節b〜10節「ここに来なさい。あなたに子羊の妻である花嫁を見せましょう。 そして御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行き、聖なる都 エルサレムが神のみもとから、天から降って来るのを見せた。」この新しいエルサレム、主イエスを信じる者たちの集まりであるエルサレムは、教会と言っても良いかもしれません。それは子羊イエスの妻であると聖書は記しています。


祈り

私たちが、子羊イエスの愛される者とされていますことに感謝いたします。自分自身の評価では、決して谷間のゆり、良い香りをはなつ者とは到底思えませんが、それでも主が全き愛をもって、見てくださっておられることに感謝致します。 アーメン 

文:森 宗孝


 
  • hccnichigo
  • 11月23日

 ソロモン王が作った歌は、ほかのどんな歌よりも素晴らしいといわれています。英語で雅歌は、「Song of Songs」で、「歌の中の最高の歌」と解釈されているそうです。


 雅歌は、伝道者の書や箴言とくらべて心がほのぼのとする男女の恋愛のオペラの音楽劇のように思われます。そのような男女の恋愛のような歌が聖書の中に含まれるようになったのは意味があるそうです。これは、神と民、キリストと教会を現した比喩的な表現だと解釈されているそうです。


「エルサレムの娘たち、ケダルの天幕のように、ソロモンの幕のように、

  私は黒いけれども美しい。」5節


「あなたがたは私を見ないでください。私は日に焼けて、浅黒いのです。

 母の息子たちが私に怒りを燃やし、私を彼らのぶどう畑の番人にしたのです。

 でも、私は自分のぶどう畑の番はしませんでした。」6節


 この5節と6節の御言葉の「私は黒い」「浅黒い」ということがなにを意味しているのかを深掘りしてみると、これは神様と私たちの関係にそのままあてはまるといわれています。私たちは罪に汚れた真っ黒い田舎者で、とても王なる神様に近づける者ではありません。しかし、それでも主なる神様は、真っ黒い田舎者でも愛してくださっているのです。


 日本のことわざには、色白は七難を隠すと言われています。平安時代の貴族たちでよく語られたことで肌の色が白いことが美人の第一条件だといわれたそうである。南国生まれ、育ちの自分にとって色白は憧れだった。だが、今の私たちは神様からみたら外見は何でもないのである。中身を磨いて色白くすることが主に喜ばれることである。神様は、私たちのありのまますべてを愛してくださっているのです。


「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」イザヤ書43章4節


 天の父なる神様。御名をほめたたえます。

私たちの顔は真っ黒い田舎者でした。あなたは、このような私たちを愛してくださって御子イエス・キリストの尊い十字架の血潮によって私たちの顔を白くしてくださりました。あなたは、私たちに高価で尊いと言ってくれました。これほどの愛はどこを探しても見つかるものではありません。私たちもあなたに愛されているということを確信して、主よ私たちもあなたを愛しています。と叫びます。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


 

 私は、現在色々な患者さんたちの看護に携わらせて頂いている。ベッドに横たわって動けない、意識のない人もいる。けれど、家族はそれでも、1日でも長く生きて欲しい。


 心の問題で身体が動かない人もいる。たまに「早く死にたい」と言う。でも本人の生きたい、生きたくないの意思に拘らず、身体の細胞は日々新しくなる。約200日で身体の全細胞が生まれ変わる。神様は、なんと巧妙に人を造られたのか、と感動を覚える。


 身体が動かなくても細胞は生まれ変わる、このことにより毎日前進していると思う。けっして後退ではない。身体は能力減退しても後退していず、前進している。このような一見、矛盾しているようなことが起こるのは、神の御業としか言いようがない。


だから、1節

「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。(抜粋)」


 現代は人生100年時代である。しかし、ソロモンがこれらを書いた旧約聖書時代の平均寿命は40歳に満たないという。伝道者の書はソロモンの晩年に書かれたという。大昔の晩年だから35歳から40歳頃だろうか? 現在の30歳や40歳はプライム・エイジだと私は思う。


5節 「人々はまた高いところを恐れ、道でおびえる。アーモンドの花は咲き、バッタは足取り重く歩き、風鳥木は花を開く。人はその永遠の家に向かって行き、嘆く者たちが通りを歩き回る。」


 アーモンドの花は白く、頭が白くなることを意味している。バッタの重い足取りは老人の歩き方を表し、風鳥木は花開く は欲望が減退することを意味している、という。


 つまり年老いて誰もが行き着くところは、


7節 「土のちりは元あったように地に帰り、霊はこれを与えた神に帰る。」


 ちりから造られた私たちの身体は土に帰り、霊は与えてくれた神に帰る、と言うことだ。


 ここでハッキリ言えることは、クリスチャンは、身体は滅びても天で永遠の命がある、ということだと思う。


祈り:

天の父なる神様、赤ちゃんの頃から教会に来ている子たちは幸せです。あなたの存在を幼い頃から知り、崇め、畏れることを知るのですから。まだ御子イエスを知らない人たちのなんと多いことか。その人々がどうか早めにイエス・キリストという救世主に出会えますように。尊いイエス様の御名により祈ります。アーメン

文: マッカーター政子



P.S. 40 is new 20. 60 is new 40. 80 is new 60.


 
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