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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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 この手紙は、へブル人に書かれたものなので、旧約聖書に通じていない者たちにとっては難しく感じられるでしょう。

 この著者が伝えたいことは、イエス・キリストこそ真の大祭司であるということです。そのことを説明するために、メルキゼデクやレビ族に言及しているわけです。

 祭司はレビ族から選ばれるという律法がありました。しかしイエスはユダ族に属しています。そうしますとイエスが祭司であることが疑われるわけです。

 しかし著者は、アブラハムがメルキゼデクというレビ族ではない者に10分の一の捧げものをしたという事実を明らかにしました。10分の一を受け取るのは祭司です。つまり、レビ族の元であるアブラハムがレビ族以外のメルキゼデクを祭司として認めたということです。

 このことから、イエスこそ、血筋という肉によって祭司になったのではなく、「朽ちることのない、いのちの力」(16)によって祭司になった、真の大祭司であることを明らかにしているのです。

 このことを明らかにする理由は、律法に基づいた祭司が司る祭儀によっては、人の救いは不完全であるということにあります。やがて死ぬ人間である祭司が動物の犠牲をいくら捧げても、それでは罪からの救いには不十分です。著者は、律法による救いの限界と、真の救いの希望をここで伝えようとしているのです。


「イエスは永遠に存在されるので、変わることのない祭司職を持っておられます。したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神の近づく人々を完全に救うことがおできになります。」(24,25)


 イエスこそ、真の大祭司である、人を完全に救うお方です。アーメン。

 

「イエスは、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のために、次に民の罪のために、毎日いけにえを献げる必要はありません。イエスは自分自身を献げ、ただ一度でそのことを成し遂げられたからです。」(27)


 イエスが自分自身を献げた、これはまさしく十字架を現しています。イエスの十字架こそ、完全な救いを成し遂げてくださったのです。このことのゆえに私たちは、ただ恵みと信仰によって救いを得ることができるのです。 

 

  天の父なる神さま

 イエスさまが私たちの救いのために十字架で命を捨てて救いを完成してくださったことを感謝いたします。私たちに与えられた救いは、まさに恵みです。ただ感謝して、その恵みを受け取ります。この受難節のとき、さらにイエスさま、あなたの十字架の救いの深さ、豊かさを知ることができますように、どうぞ導いてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン 

文:関真士


 

『私たちの希望』


 ここで、主イエスの種まきのたとえ話を思い出しました。マタイ13章19〜23節を短縮すると、御国のことばを聞いて悟らないと、道端に撒かれた種のように、悪い者が奪います、また岩地に蒔かれた種は、みことばをすぐに喜んで受け入れた人ですが、その人の中に根がなく、困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。茨の中に蒔かれたとは、みことばを聞くが、この世の思いの誘惑で、みことばをふさいで、実を結ばない人のこと、しかし良い地に蒔かれたものは、百倍もの実を結ぶという、主イエスの例え話です。このヘブル6章7~8節「たびたび降り注ぐ雨を吸い込んで、耕す人たちに有用な作物を生じる土地は、神の祝福にあずかりますが、茨やあざみを生えさせる土地は無用で、やがてのろわれ、最期は焼かれてしまうのです。」神の祝福を受ける良い土地と、世の誘惑や苦難によるつまずきの茨の土地は、主の日に焼かれて裁かれてしまう。私たちは、はたして、主イエスの示された中の、どのような土地なのかと考えさせられてしまいます。


 さて、この前の5章で、大祭司メルキゼデクは主イエスと並べられて語られましたが、大きな違いもあります、それは大祭司である主イエス自らが、神の子羊となって、私たちのために血を流されたことでした。ですから、主のみ教えである、復活や永遠の裁きをしっかりと心に刻みましょう、すでに神の御子自身から、みことばと来るべき世の力を教えられて、味わったにもかかわらず、心の中に根がなかったり、この世の誘惑に負けてしまったりする堕落者は、神の子イエスをもう一度十字架にかけて、さらしものいにする者として、裁かれてしまいますとも警告しているのです。十字架を信じる、確信を持ち続ける者と信じられない者の対比があります。


 確かに、ヘブル書は、なかなか手強い書です、特にユダヤ教や旧約聖書の知識が足りない私たち異邦人にとっては、理解するのに苦労します。聖書の基盤となっているのは、神との契約という概念です、そして神はアブラハムに無条件契約である恵みの契約、アブラハム契約を授けたのです。アブラハムは国々の父となり、子孫は星の数ほど増えるという神の約束、これは、この契約を受けるアブラハムが、条件を満たさなければ、契約を破棄するという性質のものではなく、無条件で与えられました。神自身が、ご自分の何かけて誓い、そしてことばにして保証されたのです。そしてアブラハム契約のように、主イエスは、十字架によって、私たちに愛の契約、恵みの契約を下さり、その中には主イエスが復活されたように、私たちも、やがては永遠のからだをいただき、主と共に住むという保証をされました。これが天にあります私たちの希望であって、たましいの錨のようなものと表現されています。


祈り

私たちには、魂の錨となる、消え去ることのない希望が与えられています。どうか人生の嵐に会ってもしっかりと錨をおろし忍び耐え、たとえ欲望の誘惑によって進む方角を間違いませんように、主の十字架を確信をもって信じる者となれますように。 アーメン 

文: 森 宗孝


 

『大祭司メルキゼデク』


 創世記14章18節に、アブラハムが自分の親類が捕虜になったので、奪い返す場面が描かれていて、そのアブラハムをサレム(エルサレム)​​​​の王であり祭司のメルキゼデク(メルキ=義のツェデク=王)がパンとぶどう酒を持って祝福した。まるで主イエスの聖餐式のようにとありますので、彼は主イエスを予表していたとされています。 しかも、アブラハムは、ここで十分の一を捧げて、私たちの什一献金を思い起こすわけであります。確かに、主イエスも平和=シャロームの君であり、義の王でもあります。


 ヘブル書は著者不明ですが、書き送っている相手は、あきらかにヘブル人、イスラエルの民に向かって語りかけています、冒頭の1章1節に「多くの方法で先祖たちに語られましたが」とある先祖とは、ヘブル人へ向かってのことばです。そして恐らく、イスラエルの民は、祭司という職は、必ずアロンの家系であるレビ族からという固定観念を持っていましたので、なぜ祭司とも呼ばれる、ナザレのイエスがレビ族ではなく、ユダ族の家系の出身であるから、レビ族出身でなければならないはずの祭司ではないと考えていたユダヤ人もいたのでしょう。そのような家系を気にするヘブル人に対して、アブラハムの兄弟のアロンが、自分の選びで大祭司となったわけではないように、イエス・キリストも神に選ばれた祭司なのだという論理を展開するわけです。しかも、アブラハムを祝福した、エルサレムの王で祭司であった、家系やその歴史も謎である、メルキゼデクのように、もしくはイエスは、アブラハムの時代に、このメルキゼデクであったと言わんとしていると思うのです。


 しかし、聴衆であるユダヤ人に対して、あなたがたは未だ、霊的に成長していない乳児なので、まだまだ、このような真理を受け入れるだけに成長していないとヘブル人を、乳飲子として、もっと霊的に成長しなさいとうながしているのです。私たちも考えてみますと、よほど旧約聖書を読み込みませんと、このメルキぜデクと主イエスが関連しているなどとは想像もつかないわけで、乳飲子のようであるわけで、霊的にこれから成長してゆかなければ真理に近づくことが難しいわけですね


祈り

確かに、私たちも霊的に幼子であり、霊的に眼がやっと開けられたような状況であります。どうか聖書のみことばを糧として、食べて成長し、もっと固いみことばを理解できるようになりますように、導きください。 アーメン 

文:森 宗孝


 
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