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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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 今日は感謝祭。主がなさったすべてのことに心から感謝します。


 雅歌の5章の冒頭は幸せな結婚式のことが述べられています。しかし、2節以降からは花嫁の怠惰から愛する花婿が去っていくという悲しいことが語られています。


 新婚時代は夢のような毎日が続いていきますが。年月を重ねていくとお互いのわがままがでてきて危機的状況に陥ることがあるのは誰もが体験することだと思います。これは、キリストと私たちの関係上でも起こりうることだと言われています。クリスチャンになったばかりは、信仰に燃えて霊的思考をもっと求めていきたいという意欲が強くなってきます。しかし、信仰生活が長くなっていくと、私たちの霊的思考も倦怠期に陥りやすくなって、神が戸をたたいておられるのに私たちは直ぐに戸を開けることができなくなってしまうということです。


 花婿(イエス様)が戸をたたいて、開けてくれと催促しています。中にいる花嫁(私たち)は、脱いでしまった衣をどうしてまた着られるのかとか、足を洗ってしまったのをどうしてまた汚せるのかと自分勝手な思いで直ぐに戸を開けようとしません。その結果、戸を開けた時には花婿は花嫁から去って行ってしまったのです。


 イエス様は、私たちの心の戸をたたいて下さっているのに、私たちは自分の都合で戸を開けようとしないことがあります。もちろんイエス様は私たちを決して見捨てることはありません。イエス様はいつでも私たちとの関係を深めていくことを願っています。イエス様のその思いにいつも私たちが気づいていくことが大切だと思います。


 イエス様が片手にランプを持って、家の戸をノックしている絵(「世の光」)が思いだされます。その絵は、ホルマン・ハントという画家が描きました。その戸の外にはノブがついていません。中にいる人が開けなければ、戸は開かないということです。私たちの心の戸を開けなければイエス様は入ってこられないということです。


「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」ヨハネの黙示録3:20



 愛する天の父なる神様。あなたが私たちの心の戸をたたいている時に、私たちが直ぐに気づいて喜んでお迎えすることができますようにしてください。どんな時にもたえずあなたの御声を優先することができますように助けてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


 

 雅歌、これは男女の愛を美しく歌った書です。また、花婿とイエス・キリスト、花嫁を教会として読み取ることもできます。さらに神から私への愛の語りかけとして受け取ることもできるでしょう。


「ああ、あなたは美しい。わが愛する者よ。ああ、あなたは美しい。」(1)

 このように呼びかけられたら、どうリアクションしたらいいのでしょうか。思わず首を振ってしまいますか? 神の目には、私たちは高価で尊い存在です。ですから神にとって私たちは、このように美しく、愛しい存在なのです。

 それは、若い時の眩しいばかりの美しさだけではなく、年老いてもなお神にとって私たちは、このような存在なのです。


 だからこそ、もし私たちが神から離れるなら、どんな犠牲を払ってでも取り戻そうとするでしょう。もし悪にそまってしまうなら、どんな犠牲を払ってでも悪を清めるでしょう。もしその姿が傷ついてしまうなら、どんな犠牲を払ってでも、その傷を癒すでしょう。 


 真の神は、諦める神ではなく、諦めない神なのです。捨てる神ではなく、取り戻す神なのです。去る神ではなく、近づいてくださる神なのです。

 なぜなら、私たちは神のかたちに造られた神の作品であり、神の愛は永遠に変ることはないからです。

 

「ああ、私は美しい。私は愛されている。ああ私は美しい。主にあって」と自分に語りかけることが出来るでしょうか。これは自己愛、自己陶酔とは全く違います。神にとっての自分の存在です。この真の自分を生きるとき、その愛は、他者への愛へと流れていき、この世で最も美しい世界、それは互いに愛し合うという世界をもたらすのです。

  

 天の父なる神さま

 あなたにとって、私たちは「美しく、愛しい」、そのような存在であることを感謝します。その自分に相応しく、さらに清く、美しく、主の栄光を現わす私たちでありますように。この世にあって光を放つ者たちでありますように。あなたの無限の愛に感謝します。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン                                               文:関真士


 

『花嫁と花婿』


 聖書には、父なる神とイスラエル民族は、夫と妻と言い表せていると考えられる、そして主イエスと教会(信者)は、花婿と花嫁という関係だと思うのです。その根拠は、IIコリント11章2節「私は神の熱心さをもって、あなたがたのことを熱心に思っています。私はあなたがたを清純な処女として、一人の夫キリストに献げるために婚約させたのですから。」そうして、このような視点で雅歌を理解したいと思います。しかし、主イエスを、愛の詩である、雅歌の中から想像するのは、自分にとっては至難の業で、とても難しいことです。


 この3章は、花嫁となる女性が夜中に夢をみているようなイメージのようです。花婿が見つからないのです。なんとなく、花嫁が花婿を探し出すというのは、本来の逆の話に思ってしまいます。通常は花婿が花嫁を探しまくるという設定ではないのかなぁと思っていると、昔見た映画、ダスティー・ホフマンが

結婚式に乗り込んでいって、本当に愛している花嫁を奪って、二人でバスに乗って逃げるシーンを思い起こしました。


 6〜7節に、ソロモンの乗る輿が荒野から上って来る、投薬が乳香、あらゆる香料と描かれている所は、主イエスの誕生、東方の博士たちが持ってきた没薬や乳香の話を思い起こさせます。救い主として生まれてきた主イエスは、神殿やエルサレムとは全く疎遠の、荒野からダビデの町、家畜小屋で誕生されたのですね。 何という神の知恵なのでしょう。 


 ヨハネの黙示録19章9節では、子羊の婚宴が描かれています、花嫁は用意ができた、花嫁は輝くきよい亜蓑布をまとうことが許された。その亜蓑布とは、聖徒たちの正しい行いである。9節「御使いは私に、「子羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ。と書き記しなさい。」と言い、また「これらは神の真実なことばである。」と言った。


この婚宴は、天上で行われている子羊イエスとの喜びの婚宴式です、思えばヨハネの福音書で最初の主イエスのしるしは、カナの婚礼でした。私たち信者は、地上では天災、患難時代を迎えて、苦しみの時代を通っている間に、天上にすでに招かれていて、主イエスと共に婚宴の式に、喜びのワインを飲む姿をここに見るのです。


祈り

この雅歌、一見読むと恋物語の詩には、主イエスが示されているのですが、自分にはなかなか見えないのです。どうか理解できるように導いてください。アーメン 

文:森 宗孝


 
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