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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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「しかし、ついに

 いと高き所から私たちに霊が注がれ、

 荒野が果樹園となり、

 果樹園が森と見なされるようになる。」15節


「公正は荒野に宿り、義は果樹園に住む。」16節


「義が平和をつくり出し、義がとこしえの平穏と安心をもたらすとき、」17節


「私の民は、平和に住まい 安全な家、安らかな憩いの場に住む。」18節


 イザヤ書32章は31章に続く第五の警告が書かれています。その警告とは、神を認めない道を生きるのか、それとも、神に従って救いの道を生きるのかということです。しかし、神は救いの道をも用意してくださっているという希望のメッセージも語っています。

 16節の「義」とは、イエス・キリストを指しています。その義がもたらす平穏と信頼は一時的なものではなく永遠のものであることから、その義は自分の義ではなくキリスト・イエスを信じる信仰によって与えられる神の義であると言われています。はっきりとイエス・キリストの救いが示されている新約の時代に生きることがなんと幸いなことでしょうか。私たちは、今、新約の時代に生かされています。旧約の聖書を読むたびに、その歴史を紐解いていくたびに思わされることであります。だが、そこから千年王国まではどれくらいあるのか誰も知りませんが、今キリストを受け入れた私たちクリスチャンは、祝福を得られるということを確信していくことです。

 永遠なる神の義を求める時に、私たちの信仰が強められ、平安が得られ、神との関係、人との関係が成就されていくのです。



 愛する天の父よ。御名をほめたたえます。私たちは、イエス・キリストの十字架の血潮によって救われました。それが新約の時代に生かされていることに心から感謝します。この時代において常に神の義を求め続いていくことができますように導いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

 

 31章は、国の危機の中で神さまを信じていながら、実際の拠り所としては人の力を先に求めてしまったイスラエルに向けて語られた章です。

 ここで問われているのは、信仰があるかないかではなく、誰を最初に頼るのか、どこに最初の拠り所を置くのかという、その向きのことだと思います。


「ああ、助けを求めてエジプトに下る者たち。彼らは馬に頼り、数が多いといって戦車に、非常に強いといって騎兵に拠り頼み、イスラエルの聖なる方に目を向けず、主を求めない。」(1節)


 イスラエルは神さまを捨てたのではありませんでした。ただ、危機のただ中で、神さまを「最初に」求めなかったのです。このみことばは、私自身とも重なります。


 御翼のかげに守られてきたはずなのに、私はときに、主を最後に頼ってしまうことがあります。何か起こると、すぐに自分でどうしたらいいかを考え、動ける道や選択肢を頭の中で並べ始めたりして、祈りはその流れのいちばん後ろに回ってしまうのです。気づけば、人の力を先に頼っている自分がいることがあります。


 神さまは、その順番のずれを、感情的に責めるのではなく、静かに指摘されます。


「エジプト人は人間であって神ではなく、彼らの馬も肉であって霊ではない。」(3節)

 問題は、人を、神さまの位置に置いてしまうことなのです。


 それでも主は、私たちを突き放すわけでもなく、まず行動を正せと言われるのでもなく、ただ立ち返る場所を示されています。


「帰れ、イスラエルの子らよ。あなたがたが反抗を強めているその方のもとに。」(6節)


 神さまが求めておられるのは、行動のやり直しよりも、もう一度神さまの御前に立ち返ることです。 先に考え、先に動き、最後に祈る順番から、祈り、仰ぎ、そして動くという順番へと、神さまが引き戻してくださっています。


「万軍の主は、舞い飛ぶ鳥のようにエルサレムを守る。これを守って救い出し、これを助けて解放する。」(5節)


 私は今も、先に動いてしまう者です。それでも神さまの守りが約束されていることを思うと、ただ感謝するほかありません。


愛する天のお父さま

 動く前にあなたを仰ぐ心を、決める前にあなたに立ち返る心を、あなたの恵みによって整えてください。今日も、御翼の下に身を置きます。 

 イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン


 

 30章の1節で神の思いが既に語られている。


『「わざわいだ、頑なな子ら。──主のことば──彼らははかりごとをめぐらすが、わたしによらず、同盟を結ぶが、わたしの霊によらず、罪に罪を増し加えるばかりだ。(イザヤ書30:1 SKY17)


 時代背景として、イスラエルは 北イスラエル王国、と南ユダ王国に分断されていた。紀元前8世紀頃である。近い将来、北イスラエルはアッシリアに捕囚されてゆく。そして南ユダは、バビロニアに捕囚されていく。といってもこの頃ハッキリとした国境があったとは思えない。イスラエル全体を愛している神様にとって分断されていることを悲しまれたことであろう。敷いては今も分断のある国々を悲しまれていると思う。もっと身近なことでは、政治的分断や教会の分断、夫婦間での分断など、神様は悲しまれていることであろう。


 南ユダの預言者イザヤを通して、北イスラエルの将来を憂いている。神様が、一番悲しいのは「私の霊によらず」であろう。


 この章では北イスラエルへのアッシリアの脅威に対しエジプトと同盟を結ぼうとしている。人間的な策略ではなく、神様の霊に頼らないことに対し、指導者たちを叱咤している。


 そして15節では「立ち返り、静かに信頼すれば力を得る」と、救いの希望が書かれている。


『イスラエルの聖なる方、神である主はこう言われた。「立ち返って落ち着いていれば、あなたがたは救われ、静かにして信頼すれば、あなたがたは力を得る。」しかし、あなたがたはこれを望まなかった。』(イザヤ書30:15 SKY17)


祈り:

愛する天の父なる神様、

私たち人間は、「頑な」です。誘惑と言う名の捕囚の際、そして何かただならぬことが自分の身に起ころうとしている時こそあなたにより頼もう。自分で何とかするのではなく、心を鎮めてあなたに信頼を置き、あなたの霊に頼るものとなれるよう日々導いてください。今日の御言葉も感謝します。イエス・キリストの御名により祈ります。アーメン

文:マッカーター政子

 
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