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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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『マリアの賛歌』 


 ルカがこの福音書を書き始めた頃、イエスの公生涯を共に生きた人たちの証言をもとに、その事実をまとめようとする働きがあったようです。その試みは困難を伴ったようですが、ルカは綿密に調べることが出来、また順序立てて書き上げることが出来たと書いています。その彼の働きを経済的に支えたのがテオフィロではないかと言われています。そのため、ルカの福音書はまず彼に献上する、という形で始まっています。ルカによって、他の福音書では要約もしくは省略されている事柄について、さらに詳しく知ることが出来るようになりました。感謝です。またその彼の働きを支えたテオフィロにも感謝です。


 天使ガブリエルによるバプテスマのヨハネの父である祭司ザカリヤへのメッセージは、ザカリヤが主のみ前である神殿で奉仕しているときに伝えられました。ガブリエルは、祈りの象徴である香の祭壇の右に現れ、ザカリヤの祈りが聞かれたことを告げました。それは、彼の不妊の妻エリサベツが男の子を身ごもり、その奇跡的な子はヨハネと名付けられ、エリヤ到来の預言を成就となる、ということでした。しかしザカリヤはそのことばをすぐに信じることが出来ず、彼の不信仰な口はガブリエルによって、子供の割礼の日まできけなくなりました。


 ザカリヤとエリサベツの願いは子に恵まれることでした。ザカリヤは長年の祈りがやっと聞かれるというのに、それをすぐに信じることは出来ませんでした。長年の願いが聞かれた時の反応によって、自身の信仰が瞬時に測れるのだなと思いました。私もそうでした。ある友人のご主人が主を信じたという話を聞いたとき、「信じられない!」と叫んでいました。喜びの叫びだと言えば聞こえは良いですが、それは紛れもなく不信仰の叫びでした。主が私たちの祈りを聞いてくださっていると信じているから、私たちは祈ります。だからそのことが聞かれたなら「信じられない!」ではなく、「ハレルヤ!」と主を賛美したいと思いました。


 次に天使ガブリエルはマリアに現れ、主イエス・キリストの受胎が彼女の上に起こることを告げました。マリアは救い主の母として神からの恵みを保証され、その子の名はイエス(主は救い) 彼は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれ、主なる神は彼に父ダビデの王位を与える、と言われました。さらに、ヤコブの子孫を永遠に治め、その支配に終わりはない、と告げられました。しかしマリアは処女であったので、どのようにしてこのようなことが起こるのですかと質問しました。すると天使ガブリエルは、受胎は聖霊の働きによるものであり、それゆえ「生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます」と言いました。


 ザカリヤへの受胎告知より、マリアへの受胎告知のほうが受け入れ難い奇跡ですが、マリアは「あなたのおことばどおり、この身になりますように」と主のみわざを信じました。マリアは、イスラエル民族が長い間祈って来た願いがようやく聞かれたことを理解したのだと思います。異邦人にとっては信じ難い出来事ですが、イエスが100%人であり、100%神であることの根拠はここにあるのです。


 神の子を宿すことになったマリアは、自分と同じように主の恵みに与った親戚のエリサベツを訪問し、「主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は幸いです」との彼女のことばに応えるように、賛歌を作りました。その内容は、旧約聖書への言及や引用が含まれていることから、マリアは聖書に精通していた人であったと言われています。マリアの賛歌はラテン語で「マグニフィカート」(わが魂は主をほめたたえる)と呼ばれ、西方や東方のキリスト教会では賛美したり、降誕節には朗読されたりするそうです。


 マリアは、自分が取るに足らない者、また罪人であるにもかかわらず、ただ主の恵みによって救い主を体に宿すという召しをいただいたことに感謝し、主をほめたたえました。まさに、低き者が高く上げられた瞬間でした。しかし、時代背景を考慮するなら彼女の妊娠は律法違反であり、死刑に値しました。それでもマリアは主のみこころを優先しました。


 その姿から、マリアの信仰はまさしく聖書信仰であったと思いました。処女でありながら子を宿すという奇跡でさえ、恐れることなく受け入れることが出来たのは、聖書に精通していたからだと思いました。信仰とは、聖書のみことばによって支えられ、成長して行くのだと教えられました。「あなたのおことばどおり、この身になりますように」という信仰は、みことばを知らなければ、唱えることのできない祈りなのかもしれません。主のみこころを求めて、聖書の学びを続けて行きたいと思いました。



祈り:愛する天のお父さま。聖書の学びは奥深く、学べば学ぶほどに恵みが増していくため、学ぶのを止めることが出来なくなりました。この聖なるアディクションに感謝いたします。みことばがさらに蓄えられ、私のすることすべて、考えることすべてが、みことばに立つものと変えられますよう、これからも訓練し、導いてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

文:アイゾン直子


参照:マラキ4:5、Got Questions、ハーベストタイム「ルカの福音書」



『買い戻し』


 ルツ記も終わりの章となった。実に心が洗われるようなハッピーエンドと言っても過言ではない光景である。


 ルツ記一章21節でナオミが悲しみに打ちひしがれて女たちに言った言葉が、「私は出て行くときは満ち足りていましたが、主は私を素手で帰されました。」(抜粋)ここで大逆転のことばに代わるのである。14節~15節で、「女たちはナオミに言った。『主がほめたたえられますように。主は、今日あなたに、買い戻しの権利のある者が途絶えないようにされました。その子の名がイスラエルで打ち立てられますように。その子はあなたを元気づけ、老後のあなたを養うでしょう。あなたを愛するあなたの嫁、七人の息子にもまさる嫁が、その子を産んだのです。』とほめたたえたのである。


 以前のナオミは、女たちに、ナオミと呼ばないで、マラと呼んでくださいとまで言ったのである。ちなみにナオミとは快いという意味で、また、マラとは苦いという意味である。もうそのような気持ちにならなくとも、ナオミはルツの子によって完全に癒されたのである。どれほど辛い道のりだったかと思います。それでも、ナオミは偶像礼拝などに心が奪われることなく、ただひたすらにルツのことを思い前向きにいられたのは主が背後で働いておられたからだと思います。ナオミとルツは、神の恵みによってボアズに出会わせてくださり、喜びに満ち足りた日を迎えることができたのである。ナオミとルツを通して次の御言葉がしめされた。


「最後まで耐え忍ぶ人は救われます。」マルコの福音書 13:13(抜粋)


 私たちクリスチャンは、イエスさまの無償の愛(十字架)によって買い戻されました。このような愛がどこにあるでしょうか。これは事実歴史上の出来事であります。このことを信じる者は皆救われます。アーメン



 愛する天の父なる神さま。モアブによって買い戻されたナオミとルツの人生は苦しみのなかから喜びに変えられました。私たちクリスチャンもイエス・キリストの無償の十字架の愛によって買い戻され、罪からの自由を得ることができました。人知では考えられないことです。このような無償の愛はどこを探してもありません。頂いたこの大きな主の無償な愛を、まだ知らない人々に伝えることができますように私たちを用いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


 この章でまず目を引くのはルツの再婚を気にかけるナオミのアドバイスだ。今夜大麦のうち場にボアズが大麦をふるいにかけに来るだろうから、からだを洗って油を塗り、晴れ着を着てうち場に行くように勧めるのだ。そして、ボアズが寝るとき、その足元をめくって、そこで寝なさいというのだ。それがたとえ求婚のスタイルだとしても、普通に考えたらだいぶ非常識で、それを行うには相当勇気が必要だったと思う。でも、ルツはナオミのいうことはなんでも聞くと応えるのだ。


 ルツは夫亡き後、ナオミを慕って祖国を捨てて、彼女に従ってきた。それは、ナオミの中に親兄弟にすらなかった、神様の愛を感じ取っていたからだと思う。ナオミが神様を愛し、神様に従っている姿に、ルツも倣って生活していたのだと思う。そのルツの姿はボアズにも好意的に映っていた。


 だからこそ、自分の畑で落穂ひろいをしていたルツが、突然このような大胆な行動に出ても、ボアズも彼女を誠実な女性だと称賛し、神様の方法をもって彼女を買い戻すことを約束した。ただ自分が買い戻す前に、まずはもっと近い買い戻しの権利を持っている親戚に、その人が買い戻すかどうかを聞きに行った。これが神様の方法だったからだ。


 ナオミもルツもボアズも、3人ともただその時、その時、神様の方法に従って生きていた。自分の願望ではなく、神様の方法から離れなかった。後にルツとボアズは結婚し、そのひ孫としてダビデが生まれる。そして、ダビデの家系はイエス様の家系でもある。ナオミとルツがその伴侶や息子を失ったとき、貧困にあえいでいるとき、こんな祝福が待っているなんて想像もしなかっただろう。自分たちの物語が聖書に記されて、世界中の人がその人生から神様の御心を読み取ろうとするなんて考えもしなかっただろう。ボアズもルツと結婚したことで、こんな祝福が来るなんて思いもしなかっただろう。神様のなさることは人間には計り知れないことを思わされた。


 天のお父様、今日のみことばを感謝いたします。ナオミもルツもボアズも、肩ひじ張ることなく、自然と神様に従っている様子を感じ取りました。3人とも相手に対する愛情にあふれています。ナオミとルツは貧困にあえいでいるが、状況に翻弄されずにただ神様を見上げて生きています。どうぞ私もそのように状況にうろたえることなく、握りしめることなく、あなたにゆだねて生きることができるようになりますように。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン


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