top of page
Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

【お知らせとお願い】
​ メールアドレスを登録して頂ければ、
 新規ブログ更新毎にお知らせメールが届きます。​
 この機会に、是非、ご登録をお願い致します。​

ご登録ありがとうございました

 *登録の手順) アドレス入力 → 「>」を押下

『獅子の穴』


 子供達の聖書の絵本には、このダニエルが投げ込まれた獅子の穴の話が、絵となった描かれているわけですが、その昔、自分自身、まだまだ信者になりたてで中川健一郎先生の聖書の講座を、しょっちゅう聞いておりましたので、ある程度、自分は聖書を知っているつもりでいたのです。ところが孫娘にこの絵本を読んで聞かせているうちに、このダニエルが獅子の穴に入れられた? この話、自分は知らないと唖然とした事を思い出します。なんだか聖書が解ったと思った瞬間に、ガツンと頭を叩かれたような経験があります。子供の頃から日曜学校に通っていたわけではないので、有名な話も知らずにいたことを思い知らされたのです。 本当に聖書は奥深いと感じるこの頃ですね。


 さて、ここに登場するダレイオス王とユダヤ人たちをやがて帰還命令を出すキュロス王の治世、年代が実ははっきりとは解明されていないので、この話は、実際にあった事ではなく、象徴的な話とする方もおられるわけですが、自分は文字通り、聖書をみことばと受けますので、実際にこの中東の時期には、獅子を飼っていたことも判っていますので、実際に起こった事と理解しています、しかし、同時に、この獅子の穴の持つ意味は、人の死をあらわしているとも理解しました。 やがて、人は死から助け出されることが背後にあるのでしょう、なにしろダニエルは大変な預言者でもあったわけですから。


 特にこの6章で強調したかったことは、26節「私はここに命じる。私の支配する国においてはどこででも、ダニエルの神の前に震えおののけ。 この方こそ生ける神、永遠におられる方。その国は滅びることなく、その主権はいつまでも続く。」 これこそがまさに、6章の言わんとしていることだと思います。なぜ、バビロン帝国を滅ぼしたメディアとペルシャ王が、捕虜でいたユダヤ民族を特別扱いするようになって、やがてエルサレム帰還を助けることになったのか、そこには神の介入があり、ダニエルを獅子の穴から助け出しただけでなく、ダレイオス王をもって、ダニエルの神の前に震えおののけ、とこのユダヤの神は、生ける神であることを経験したからであります。


 このメディア人ダレイオス(恐らく称号キュアキタレス2世)であったという説があり、彼はキュロス王の叔父にあたるとされています。この時代、メディア王国は巨大な王国であったのですが、ペルシャはその中でも、帝国の東がわにある小さな国であったようです。このメディア王国の王妃がペルシャ王国に遣わされ、生まれたのが小さなペルシャのキュロスであったわけですが、彼が帝国の王となる時期ではないと判断して、メディア出身の叔父であるダレイオスを立てたという説であれば、この6章につながるのですが、考古学では、このダレイオスが王であったことの記録がないので、諸説でてきています。


祈り

ダニエルの神、父なる神の主権は永遠に続きます、この方こそ生ける神であると信じる私たちは、神と共に神の国に向かうことを感謝致します。 アーメン 

文:森 宗孝


 

 ダニエル書5章はネブカドネツアル王の息子ベルシャツアルの時制におこった出来事が述べられています。父なる王は自分の傲慢、偶像崇拝をしたために国を追われ、人間の中から追い出され、野獣と共に住み、牛のように草を食べるという試練を通して、真の神に出会う経験をして改心しました。このような出来事を見てきた息子は知っていたはずなのに、彼は心を低くしませんでした。


 そればかりか、天の主に向かって高ぶり、さらに、見ることも、聞くことも、知ることもできない銀、金、青銅、鉄、木、石の神々を讃美し、あなたの息をその手に握り、あなたのすべての道をご自分のものとされる神をほめたたえませんでした。残念ながら彼は父王のようにはならなかったのです。そして、神は、息子には父にやったように夢に表れなくて、人間の手の指を表し宮殿の壁に物を書きました。そちらの方がまだ恐怖と思われます。しかも内容が深いです。


「メネ、メネ、テケル、ウ・パルシン」という文字が書かれました。

 ダニエルによるその文字の解き明かしが26節から28節に述べられています。

 メネとは数えること、テケルとは重さを測ること、そしてバルシンとは分割するという意味です。直訳すると、「数える、数える、重さを測る、分割する。」です。このことをダニエルは次のように解き明かしています。


「あなたの知性を数えて終わらせた。あなたがはかりで量られて、目方の足りないことがわかった。だから、あなたの国は分割される。」そして、その夜、カルデア人の王ベルシャツアルは殺された。実に恐ろしい神のメッセージです。いつの世も、人は目に見える物に心が奪われていきます。しかし、目に見えるものはいつかは壊れていきます。目に見えない永遠のものに心が向かっていけるように新たに示されました。


 愛する天の父なる神様。私たちは知っています。私たちが心から讃美し、ほめたたえることのできるお方はあなただけです。


 あなたの恵みは 大きすぎて語ることばもありません。

 あなたにささげられるものがあるとしたら それはわたしです。

 この心このいのち すべてをささげます。

 主を愛し主に愛されて 主とともにとわにいきる。

                  作詞 小森兼三、富田満  作曲 富田満                                                      

 感謝して主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン


 

 4章は、ネブカドネツァル王の高慢と、その回復が語られています。


 神さまは王に大きな権力と繁栄を与えてくださいました。しかし王は、そのすべてが神さまから与えられた恵みであることを忘れ、「この大バビロンは、王の家とするために、また私の威光を輝かすために、私が私の権力によって建てたものではないか。」(30)と、自分の力を誇りました。その結果、王は理性を失い、自分の無力さを知ることになります。


 この箇所を読みながら、高慢とは単に自分を人より偉いと思うことだけではなく、神さまからいただいている恵みを当たり前にし、その恵みの源である神さまを忘れてしまう心にも表れるのだと教えられました。


 振り返ると、神さまはこれまで何度も私の歩みを支え、必要なものを備え、道を開いてくださいました。今の生活も、家族も、働く場も、奉仕の機会も、自分の力だけで得たものではなく、神さまが備え、導いてくださった恵みです。


 それにもかかわらず、先が見えなくなると、その恵みを忘れ、不安に心を奪われてしまいます。そして、自分で答えを出そうとしたり、自分で状況をコントロールしようとしたりする自分がいます。しかし、そのような私に希望を与えてくれるのが、ネブカドネツァル王の回復です。


「その期間が終わったとき、私ネブカドネツァルは目を上げて天を見た。すると私に理性が戻ってきた。私はいと高き方をほめたたえ、永遠に生きる方を賛美し、ほめたたえた。」(34)


 王が回復したのは、自分の力で立ち直ったのではなく、自分が人生の支配者ではなく、神さまこそがすべてを治めておられるお方だと認めた時でした。私も不安がなくなってから主を見上げるのではなく、不安を抱えたままでも主を見上げたいと思います。


 そして、32節に「いと高き方が人間の国を支配し...」とあリますが、この御言葉は、神さまが世界だけでなく、私の人生をも治めておられるという約束ではないかと思いました。


 私には未来が見えなくても、未来をご存じなのは主です。思い通りにならない出来事があっても、主のご計画は変わることがありません。だから今日も、自分で人生を握りしめるのではなく、これまで数え切れないほどの恵みを与え、今も変わらず導いてくださる主を見上げ、感謝しながら歩んでいきたいと思います。


 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン


 
bottom of page