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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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「主の栄光が神殿の敷居から出て行って、ケルビムの上にとどまった。」(10:18)

「すると、ケルビムが翼を広げて、私の前で、地上から上って行った。彼らが出て行くと、輪もそのそばについて行った。彼らが主の宮の東の門の入り口で立ち止まると、イスラエルの神の栄光がその上をおおった。」(10:19)


 これまで、エゼキエル書8章では主がイスラエルの民の裁かれる原因が語られ、9章では主の裁きが実行され、この10章ではエルサレム神殿におられた「神の栄光」が、民の罪深さを理由に、神殿を、そしてエルサレムを離れていくという章です。それは神がご自分の民と選ばれたイスラエルの民への裁きと神の都エルサレムからの離別を示す悲惨な章です。


 エルサレムの神殿で礼拝する人は、まず「東の門」から入り、西に向かって進み、神殿の敷居、そして至聖所へと向かいます。しかしこの10章では「主の栄光」はそれとは反対方向に進みます。これまで至聖所にとどまっていた「主の栄光(主の臨在)」が、ケルビムと共に、神殿の敷居に移動し、最終的にはエルサレムから離れるため、「東の門」へと移ります。


 このようにして、「主の栄光」はエルサレムを去ります。これは、神がイスラエルの民の罪に耐えかねて、彼らを見捨てて神殿から去られたことを意味する決定的な瞬間です。神殿から主の栄光が失われたということは、偶像に満ち、汚れた神殿はもはや主の住まうところではなくなったということです。


 主が私たちのそばから立ち去られること、これほど悲しい恐ろしい現実は、他にありません。ダビデは「私をあなたの御前から投げ捨てず、あなたの聖なる御霊を、私から取り去らないでください」(詩篇51:11)と祈ったように、私たちにも、神に見捨てられるという恐怖は実際にあるものです。しかしそのような恐怖はあっても、主の愛はなおも変わらず、神の方から私たちを見捨てることはなく、私たちと共にいてくださることを覚えておきましょう。


 次の11章で、「主の栄光」が、東の門から去って、東の山に移り、バビロン捕囚の地に移ることが示されていますが、それはイスラエルの民が捕囚となっても、主はともにおられるという希望があることだと思います。神がヨシュアに与えられた約束を思い出します。「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」(ヨシュア記1:9)


 私たちも神に見捨てられるという恐怖に襲われる時があると思います。そのような時は、まず我に返った放蕩息子がしたように、私たちもまず主のもとに立ち返り、主と共にあり続けることを許していただけるという信仰を持ち続けたいものです。


祈り

 愛する天のお父さま、今日のみことばを感謝します。私たちが辛い、悲しい、何もかも思い通りにいかない場合、ついつい主はわたしから立ち去ってしまわれたのだろうかと悩み悲しむ時が多々ありますが、そうではない、主はどんな時でも私たちと共にいて同情していてくださることを学ばせて頂きました。感謝です。

 私たちの主イエスキリストの御名によって祈ります。アーメン


 

『六人の男と一人の人による民の滅びと救い』


 主があわれみをかけない、惜しまないエルサレムとイスラエルの滅びが述べられています。ここに登場する六人の男と一人の人というのは天使と解釈されています。六人の男は手に武器を持っていました。最後の一人は祭司の服装をして、腰には書記の筆入れを持っていました。主は六人の男に老弱男女、しかも幼子も殺して滅ぼせと告げられています。


 主は、腰に筆入れを持っていた一人の人には、エルサレムで行われているすべての忌み嫌うべきことを嘆き悲しんでいる人々の額にはしるしをつけよと告げられています。つまりこれらの人々は救いの道へと導かれるということです。


 主はどうしてこのような恐ろしいことをされるのでしょうか。その答えが9節に述べられています。民が、「主はこの地を見捨てられた。主は見ておられない」と言ったからです。  そのような不信仰なことに対して、主ご自身も厳しいことを語られています。


「だから、わたしもあわれみをかけない。わたしは惜しまない。わたしは彼らの頭上に彼らの行いを返す。」10節


 主は決して私たちを見捨てられません。絶えず私たちを見守っておられます。主に不信仰になると私たちでもこのようなさばきを受けることになるということでしょう。ただひたすら主を信じて、主の憐れみにすがっていくことが示されました。苦難の中にいる時ほど主を信じるということが試されます。誘惑に陥りやすいです。私も何度もそのことを経験したことがあります。そこから抜け出ることができたのは、主の憐れみにすがって、悔い改めていくことでした。


 天の父なる神様。どんな状況に置かれていても、あなたを信じていくということから決して目を背けることがありませんように導いて下さい。感謝して主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン


 

 エゼキエル書は、幻の描写が多く、難解な書の一つです。この章もエゼキエルが見せられた幻が記されています。


「私が入って見ると、なんと、這うものや動物のらゆる形、すなわち忌むべきのや、イスラエルの家のすべての偶像が、周りの壁一面の彫られていた。」(10)


 ここには、民の長老たちの偶像礼拝の様子が記されています。預言書では、徹底的に偶像礼拝が指摘されています。信仰の戦いは、偶像礼拝との戦いであることを現代に生きる私たちに伝えています。

 それにしても、なぜ人は偶像礼拝に陥っていくのでしょうか? 人間の欲望が偶像を造り出すのでしょう。そして興味深いことが記されています。


「『主は、私たちを見ておられない。主は、この地を見捨てられた。』と言っておられるのだ。」(12)


 私たちを偶像礼拝に誘うものとして、このサタンの偽りのことばがあります。もし本当に神に見捨てられたのであれば、頼るべき真の神がいないのですから、偶像のカミに頼ることもあるかもしれません。

 しかし真実は違います。神は私たちを決して見捨てることはありません。どんなことがあっても、神は私たちと共にいてくださいます。

 この真理によってサタンの偽りに勝利していきましょう。そして、真の神に仕えていきたいと心から願います。 


天の父なる神さま

 偶像礼拝に満ちたこの世にあって、私たちは、主よ、真の神であるあなたを礼拝いたします。私たちは偶像礼拝の誘惑から守ってください。いつでもあなたと共に、あなたの臨在と共に歩むことが出来ますように、守り導いてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。  アーメン

文:関真士


 
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