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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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『蜜を食べよ』


 ユダヤ伝統社会(特に正統派ユダヤ教徒)では、幼い子供4〜5歳児に初めてトーラー(律法)を学ぶときに、ハチミツを舐めさせる慣習があるそうです。詩篇119篇103節「あなたのみことばは私の上あごになんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。」とあるように実際に律法のみことばの文字の上に、ハチミツを塗って、子供は、その文字をなぞって、ハチミツを舐めるのですが、トーラーの学びは甘い、喜びの味として、五感を通じて覚えさせるそうです。


 エゼキエル書3章でも、巻物を食べると、蜜のように甘かったとも記されています。私たち異邦人にとって、律法を読む限り、これがどうして蜜のように甘いのかと不思議に思っていましますが、神のみことばは、私たちの魂にとって甘いものなのだろうと、無理やりに納得する次第です。


 さて、この箴言24篇にも13〜14節抜粋「わが子よ、蜜を食べよ。知恵もあなたのたましいには同じだと知れ。」神の目に本当に良き家とは、3節「家は知恵によって建てられ、英知によって堅くされる。」とあります。神の知恵を喜び、この世の悪者がたとえ、富んでいるとしても、羨むな、共にいることを望んではならないと命じられているからです。


 また、この24篇には私たちが陥りやす罪、自分自身では罪とは到底思えないことも記してあります。それは29節「彼が私にしたように、私も彼にしよう。彼の行いに応じて、仕返しをしよう」と言ってはならない。」なんとも、自分に語られているようで、確かに自分がやられたように、やり返すという考えは、ついつい、心の中に芽生えてしまう考えですね。いかに自己中心に私たちは考えてしまって、自分の義が先にきて、神の義を考えもしないことに気が付かされてしまいます。そのように、罪に陥りやすい苦い自分を見据えて、神のみことばをこころで味わいと蜜のように甘く感じるのでしょう。


祈り

まだまだ、主のみことばや戒めが、自分にとって甘い蜜のような味になるという、心の状態に到底達していない自分ですが、どうか私の魂にとって、みことばが流れる水となり、優雅な曲として流れはじめますように、私の心を整えて下さい。 アーメン  

文: 森 宗孝


 

「あなたが支配者と食事の席に着くときは、前にある物によく注意するがよい。」

箴言23:1

「あなたが食欲の盛んな人であるなら、自分の喉に短刀を当てよ。」箴言23:2

「そのごちそうを欲しがってはならない。それは偽りの食物である。」箴言23:3


 この聖句をそのまま受け入れたら私は食欲を抑えなければならないのではと、さらに自分の喉に短刀を当てるなんて、そんなことできませんと神様に祈らずにはいられません。箴言20章では、暴飲(お酒の飲み過ぎ)は罪であることがしめされました。聖書には書かれていません。では暴食(食事の食べ過ぎ)はどうでしょうか?そのことも聖書には書かれていません。しかし、聖書は、語っています。お酒を飲んでもいいが飲まれてはならない。食欲があることはいいことですが、食べ過ぎてはいけないということです。神からいただいた大地の恵みを感謝を持って、楽しく、いただく時にお酒に食事にコントロールされてはいけないということではないでしょうか。


 「あなたが支配者と食事の席に着くときは、前にある物によく注意するがよい。」この1節の聖句は皆さんも理解されておられると思います。つまり、上司が何の前触れもなくいきなり食事に誘う時は、何かの魂胆があるので要注意ということですよね。


 そして、2節の聖句は肉欲に警告しているのです。食欲が過度になってしまうと自制が制御できなくなるというのです。そのようにならないように、私たちが肉欲に支配権を与えるのではなく、自分で自己の肉欲をコントロールしなければいけないということです。


 3節、「そのごちそうを欲しがってはならない。それは偽りの食物である。」

食事に誘っておいて、自分たちのいいように使っていくことが彼らの狙いであるということです。


 旧約の教えは新約の時代にも十分に適応することであります。私たちは、22節の御言葉の教えを大切に持っていきたいものでありたいです。なぜなら、それは、神の御言葉からくるものだからです。


「あなたを生んだ父の言うことを聞け。あなたの母が年老いても蔑んではならない。」22節



 天の父なる神様。私たちが信頼できる方は、ただあなた一人だけです。あなたの御言葉に日々聞き従っていくことができますように導いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


 

「貧しい者からかすめ取るな。彼が貧しいからといって。苦しむものを門のところで踏みにじるな。」22節


「主が彼らの訴えを取り上げ、彼らから奪う者のいのちを、奪われるからだ。」23節


 ここの箇所は、神さまがどのように人を見ておられるかを教えています。「貧しいから」「弱い立場だから」といって、人を軽んじたり不当に扱うことは、神さまの目には大きな罪ということです。

 調べてみると、古代イスラエルで「門」とは、人々が集まり、裁きや取引が行われる場所でした。

 そこでは力を持つ者が発言権を握り、弱い者が押しのけられることもあったとありました。しかし、神さまは、そのような不公平を決して見過ごされません。23節のように、虐げられる人の訴えを取り上げ、その人の味方となってくださるのです。


 現代にも、声を上げにくい人や立場の弱い人はいます。私はそのような人にどのように接しているのか?表面的に優しくしていても、心の中で優越感を抱いていないだろうか?

 そして私はいま、視覚障害のある方々のために「音訳(おんやく)」の学びをしています。(音訳とは、本や文字情報を「音の言葉」で伝える奉仕です。) 

 自分の中にも助ける側という立場に小さな優越感がないかを問われてみました。


 神さまは、すべての人を等しく愛しておられます。正しい人間関係とは、損得や力の差に基づくものではなく、相手を神さまの作品として尊敬し、愛をもって接する関係なのだと改めて気づかされました。


愛する天のお父さま

 あなたが虐げられた者の訴えを聞いてくださる方であることを感謝します。

 どうか私の心から傲慢を取り除き、どんな立場の人にも謙虚に仕える愛をお与えください。音訳を学ぶ中で、あなたの目で人を見、あなたの心で語ることを教えてください。あなたがすべての人を尊ばれるように、私もまた人を尊び、正しい関係を築けますように。

 イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン


 
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