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2026年9月22日 マタイの福音書5章

hccnichigo
11 分前
読了時間: 3分

『山上の垂訓』


 ガリラヤ湖を訪ねた時に、少し小高い丘の上にある山上の垂訓教会を訪ねたのを思い出します。

ここには、教会に行きつく小道に、一つずつ、この山上の垂訓のみことばが書かれて、それを読んで進むうちに、見上げると八角形の屋根の教会に着くのです。なかには、信仰、希望、愛、正義、賢明、勇気、節制が表現されていて、ここからガリラヤ湖を見下ろすように、主のみことば、5章の場面を思い起こしたことを鮮明に覚えています。この有名な山上の垂訓は、別名で7福の教えとか8福の教えと呼ばれています。7福とするのは、7番目の、平和をつくる者は幸いですということばと、次の8番目にある義のために迫害されている者とは、同じことの繰り返しとして考え、まとめると聖書的に完全数の七つの教えとなるので、七福となるわけです。


 主イエスのこれらのみことばは、天の御国はどのようなところかという説明です。それまで、ガリラヤ全域を巡って、福音を宣べ伝え、旧約聖書で示されているように、救い主として、様々な病やあらゆるわずらいを癒された主イエスですが、ここでは、天の御国はどのような所であるかを説明して、モーセの律法のそれぞれをさらに一歩踏み込んだ、もっと高い道徳として説明されています。まずは御国の説明をし、そこに入るためには、どのように律法を守るべきかの道を示されました。しかし、主イエスを信じることで救われるという福音は、ここでは語られておられないことは、果たしてどういう意味があるのでしょうか....

 

「心の貧しい者は幸いで」と私たちの聖書の翻訳にはありますが、むしろ、本来は幸いだが最初で、心の貧しい者となっている原語です。恐らく、詩篇一篇のはじまり、「幸いなことよ 悪しき者のはかりごとに歩まず」に連携しているのかもしれません。心が貧しいと聞くと、良いイメージが湧き上がりませんが、その意味するのは、今まで自分が信頼すべき主を顧みずに、主に頼っていないことを知っている者、つまり、自分の心が貧しかったと知っている者、後悔して悔やんでいる者は幸いだということでしょう。このような者は、自分は主に支えた、十分に尽くしたと思っている者に比べて幸いであるのです、それは天の御国は、自分のことを高慢に思う者たちのものではなく、心から主の赦しを求めている者たちのものだからと主イエスは言っています。つづくみことばも、すべて、やがて訪れる天の御国は、どのような人たちのものかを実際に天から下って来られた御子としての証言として読むことができます。


 そうして、続くのは、十戒を大切にしているユダヤ人に対して、モーセの律法の真意を、殺してはならないという文面通りに理解すれば、殺人を犯してはいけないと読んでしまいますが、神のみこころは、兄弟に対して怒る者、恨んでいる者、けなして馬鹿者という者も、実は心で殺人を犯しているので、同じように裁かれると、律法の真意を言うのです。この中で、特に、自分にとって耳に痛いみことばは、27節「姦淫してはならない」28節「情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中で姦淫を犯したのです。」これは、きれいな女性を見るとついつい振り向いてしまう男どもにとっては、かなり手痛い一言だと思いました。 そうして48節「ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。」とぐうの音もでない、主のみことばであります。


祈り

まだまだ主イエスの目に、完全とはほど遠い自分ですが、主イエスにすがり続けることによって、罪人の自分を義と認めてくださる福音に感謝致します。どうか常に主がまるで隣に座って、語りかけ続けてくださり、不完全な自分を導き続けてください。 アーメン 

文:森 宗孝


 


 
 
 

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