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2026年8月24日 ホセア書14章

hccnichigo
8月24日
読了時間: 2分

『背信から立ち返れ』


 ホセア書では、北イスラエル王国、エフライムの罪は姦淫の罪で、主なる神はねたむ神であることが繰り返されている。確かに主なる神は、炎のような情熱をもって姦淫するエフライムを裁きますが、滅ぼすための裁きではないのです。神との関係を回復させるための裁き、愛のムチです。それで、この4節に希望が示されている「わたしは彼らの背信を癒やし、喜びをもって彼らを愛する。わたしの怒りが彼らから離れ去ったからだ。」裁きに対して、癒しという一見すると矛盾していますが、さらに、ここのヘブル語の表現を詳しく調べてみると、癒すと愛するは、未完了形で、これから行おうとしていると理解できますが、わたしの怒り、これは完了形で書かれているので、神の怒りが去ったので、神は癒し、そして愛してくださるという順序になっています。私たちの不義から立ち返れば、聖なる神は受け入れてくださるのです。


 さて、聖書で表されている姦淫は、必ずしも夫婦の間での裏切りにとどまらずに、愛に対する裏切りであり、汚されて、踏みにじられる場合も姦淫とされますので、友が友の愛を裏切るのもそうなるのです。まさにイスカリオーテのユダが、主イエスの愛を裏切ったのも姦淫とみなされるわけです。イスラエルは神の愛を裏切ったので、神の怒りに合うわけです。


 このホセアは、身をもって妻ゴメルの姦淫を体験し、神の心の痛みの本質を理解する預言者となったわけです。しかし、同時に神の愛の広さと深さも理解する者でもありました。希望があることを確信したのです。1節にあります言葉、立ち返れという言葉と4節にあります背信というヘブル語の中には、同じ原語が使われていて、それは方向を変える、帰るという言葉だそうです。ですから、人が主に立ち返る、神がその背信(方向転換)を赦すそして、彼らを愛すという構造になっているのです。まさに、主イエスが私たちに身を呈して、伝えようとした神の愛をここに見るのです。


祈り

誰も預言者ホセアが経験したような悲惨な結婚関係を望む者はいませんが、彼の苦しみが神の苦しみであることは、理解でき、心が痛みます。しかし、私たちが方向転換することによって、神の愛が再び注がれることに感謝致します。主イエスの愛したホセア書6:6 わたしが喜びとするのは真実の愛 これを思いながら、ホセア書を閉じます。 アーメン 

文:森 宗孝


 
 
 

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