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2026年8月21日 ホセア書11章

hccnichigo
8月21日
読了時間: 3分

「イスラエルが幼いころ、わたしは彼を愛し、エジプトからわたしの子を呼び出した。彼らは、呼べば呼ぶほど、ますます離れて行き、もろもろのバアルにいけにえを献げて、刻んだ像に犠牲を供えた。このわたしがエフライムに歩くことを教え、彼らを腕に抱いたのだ。しかし、わたしが彼らを癒やしたことを、彼らは知らなかった。わたしは人間の綱、愛の絆で、彼らを引いてきた。わたしは彼らにとってあごの口籠を外す者のようになり、彼らに手を伸ばして食べさせてきた。彼はエジプトの地には帰らない。アッシリアが彼の王となる。彼らがわたしに立ち返ることを拒んだからだ。剣は、その町々に対して荒れ狂い、かんぬきの取っ手を打ち砕き、彼らのはかりごとのゆえに、町々を食い尽くす。わたしの民は頑なにわたしに背いている。いと高き方に呼ばれても、ともにあがめようとはしない。エフライムよ。わたしはどうしてあなたを引き渡すことができるだろうか。イスラエルよ。どうしてあなたを見捨てることができるだろうか。どうしてあなたをアデマのように引き渡すことができるだろうか。どうしてあなたをツェボイムのようにすることができるだろうか。わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。わたしは怒りを燃やして再びエフライムを滅ぼすことはしない。わたしは神であって、人ではなく、あなたがたのうちにいる聖なる者だ。わたしは町に入ることはしない。彼らは主の後について行く。主は獅子のようにほえる。まことに主がほえると、子らは西から震えながらやって来る。鳥のようにエジプトから、鳩のようにアッシリアの地から、彼らは震えながらやって来る。わたしは彼らを自分たちの家に住ませよう。--主のことば。わたしは、エフライムの偽りと、イスラエルの家の欺きで取り囲まれている。しかしユダは、なお神とともに歩み、聖なる方に対して忠実である。」


 主の、イスラエルに対する愛の言葉が語られています。主は民を幼子や息子のように愛し、彼らを解放し、歩くことを教え、腕に抱いて慈しみ、世話をし、育て、成長させて来たと語られます。その神の愛に反して民が示した数々の不信仰な行いは、いかに神を悲しませたことでしょうか。それゆえ、神は民を懲らしめ、彼らから距離を置かれたのです。しかし神のあわれみは深く、「どうしてあなたを見捨てることができるだろうか」と言ってくださるのです。


 ここに、無条件で熱情的な神の愛を見ます。私たちが神を裏切って、自分の力や世の偶像に頼るとき、神は心を痛め、哀れんでくださっているというのです。神の愛は、私たちの不信仰に左右されないほど強固なものだというのです。神が与える試練とは、神との関係を破滅させるためではなく、私たちが目を覚まして神のもとへ帰るためだということが、「どうしてあなたを見捨てることができるだろうか」というみことばに込められていたように思いました。



祈り:愛する天のお父さま。私たち人間の罪深さよりも、神の恵みや憐れみの方がはるかに大きいことを知り、励まされました。ありがとうございます。日々あなたの恵みの中で生かされていること、心から感謝いたします。イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン      

文:アイゾン直子


 
 
 

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