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2026年3月4日 ヤコブの手紙 1章

  • hccnichigo
  • 3月4日
  • 読了時間: 2分

 この手紙の著者であるヤコブは、主の兄弟ヤコブと言われています。手紙の宛先は「離散している12部族」(1)です。

 当時、ユダヤ人は、世界中に離散していました。異国の地でシナゴーグと呼ばれる会堂を建て、共に集まり主を礼拝し、コミュニティを形成していました。しかし特にローマ帝国によるユダヤ人迫害は苛烈さを増していきます。彼らは大きな試練に遭っていました。しかしヤコブは「私の兄弟たち、様々な試練に遭うときは、いつでもこの上もない喜びと思いなさい。」(2)と励ますのです。

 当時のクリスチャンにとって、自らが主の弟子であることの印は、信仰のゆえの試練にあうことであったのです。それが主の十字架を負うことだからです。

 今を生きる私たちにとって身を正されるような気持ちになります。


 珠玉の言葉が一杯の1章ですが、一か所だけ。

「父なる神の御前で清く汚れのない宗教とは、孤児ややもめたちが困っている時に世話をし、この世の汚れに染まらないように自分を守ることです。」(27)


 この御言葉は、昨年の11月に訪れたグアテマラの孤児院を創設するにあたっての礎となった御言葉です。この「宗教」とは、礼拝という意味もあります。

 私たちが孤児ややもめを世話することは、主を礼拝することと同じだというのです。それは、主を愛することと隣人を愛することが同じであるという事と同じです。

 ここのスタッフたちは、言語に絶するような過酷の虐待から救出された子供たち、グアテマラでは未亡人になると生活でできない社会状況の中で、この御言葉を文字通りに実践しているのです。それは、ただの人助け以上に、それが主を礼拝することと一つなのです。そこでは、毎朝ボランティアが集まって、まず礼拝からその日の作業が始まります。改めて、礼拝の意味を考えさせられる体験でした。


 ヤコブの手紙の特徴は「信仰と行い」を問うている所にあります。行いの伴わない信仰は死んだも同然だと言うのです。(2:17)

 私たちにとって「信じていることを実践する」というのはチャレンジです。しかし、とても大切なことです。内なる聖霊の助けを得ながら、信じていることを実践できる者とさせていただきたいと心から願います。


 天の父なる神さま

 どうか私たちの礼拝が、主が今も生きておられることの証となりますように。信じた御言葉を実践できますように、聖霊の力を与えてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

文:関真士


 
 
 

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