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2026年3月3日 ヘブル人への手紙13章

hccnichigo
3月3日
読了時間: 3分

『主は私の助け手』


 ヘブル書の最後にあたる13章は、迫害にあっているユダヤ人クリスチャンに対するメッセージです。初代教会のクリスチャンたちは、ユダヤ教の一部で、イエスを信望する群れと見られていました。クリスチャンへの迫害が厳しくなるにつれて、ローマ政府の方針で、地元宗教として認められて迫害の対象外であったユダヤ教に、自分達の身の安全を考えて戻ろうと思う、もとユダヤ教のクリスチャンもいたわけです。最初はユダヤ教から出てきた経緯があったので、当然な動きなのかもしれません。実に、彼らのキリストへの信仰が試されていました。


 そのような迷いの中にいるヘブル人に対して、12節「それでイエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。」私たちの主であるイエスは、ユダヤ人が敬っている神殿の中で、神の子羊としての贖いの血を流したのではなくて、ユダヤ人には疎まれた、神殿の外のゴルゴタの丘で十字架にかかったことを忘れてはいけませんと、たとえ、迫害を受け、今まで仲間であったユダヤ教信者からの苦難にあったとしても、私たちの主も、神殿の外で苦しみを受けたことを思い出しなさいと訴えています。そうして、牢につながれている人々、虐げられている人々を思いやり、今ある生活に満足しなさい、決して主は見放しておられません。主は私たちの助け手ですから、恐れるなと宣言しています。はたして私たち現代のクリスチャンはどうでしょうか。クリスチャンとなったけれども、兄弟や親族から白い目でみられることはありませんか。昔のように、皆と一緒に仏壇に手を合わせた方が、楽ではないかと思ってしまうような経験はないでしょうか。しかしそのような、社会の枠から外れてしまったと感じる時に、私たちの愛する主イエスは、社会からのけものにされただけではなく、のけものにした者たちのためにも、血潮を流されたことを思いおこそうではありませんか。


 このヘブル人の文章は、あまりにもみごとなギリシャ語で洗練されて書かれていて、どうも熱情的なパウロの手紙とは異なる、たとえば書き出しや紹介文が無いので、執筆者は別の人ではないかと言われています。しかし、23節に「私たちの兄弟テモテが釈放された」とあるので、一緒に牢獄にいたキリスト者ということは明確です。やはりパウロが著者だったのでしょうか。この著者がわからないことが原因で、新約聖書に入れるという決定がおくれてしまったけれど、内容がすばらしいので、加えられたヘブル書だそうです。


祈り

 主はどのような時にでも、私たちの助け手ですから、私たちは恐れないと断言できる者でありたいです。今持っているもので満足し、虐げられている者への思いやりをわすれないようにしましょう。アーメン

文:森 宗孝


 
 
 

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