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2026年3月24日 エレミア16章

  • hccnichigo
  • 3月24日
  • 読了時間: 3分

『主の激しい怒り』


 主の律法である十戒を学んでいる時に、出エジプト20章3節で「あなたには、わたし以外に、ほかのい神(神々)があってはならない。」としてはならない、禁止事項が続くわけですが、旧約聖書の先生が説明されたところによると、ニュワンスが本文とは違うのではないか、というのです。むしろ、2節にありますように、「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である。」これほどまでにあなたがたを愛した主であり、救い出しをしたのが主であるわたしなのだから、まさかあなたがたが、わたし以外の神(神々)を拝むようなことはないでしょうね。という意味合いが十戒ではないかという説明を受けて、なるほどと思ったのです。


 そうしてこのエレミア11節を、もう一度読むと「あなたは彼ら(ユダの民)にこう言え。『あなたがたの先祖がわたしを捨てー主のことばーほかの神々に従い、これに仕え、これを拝み、またわたしを捨てて、わたしの律法を守らなかったからだ。」だからユダの民は厳しい審判に会うと宣言しているのです。


 主に選ばれて、聖なる民として育てられるユダヤ民族には、大変な期待と責任を負っていて、やがて全世界への祭司となる役目があります。わたしが聖であるから、あなたがたも聖でありなさい。これが主の求めていることで、ユダヤ民族に限らず、主を愛し、拝む者たちに求められているのは、信仰によって、異邦人である私たちも、聖なる民であるユダヤ民族に接木されているので、聖なる者といなりなさいという、心からの願いであり、私たちにも聖なる者となるために必要な聖霊をくださったのでした。


 そして、主のみことばを取り次ぐエレミアには、厳しいことばがくだります。それは2節「あなたはこの場所で、妻をめとるな。息子や娘も持つな。」なぜならばユダの民は、ひどい病気で死んだり、剣城と飢饉で滅ぼされるからだと厳重に忠告されたので、エレミアは結婚して家庭生活を味わうことがないのです。しかも家族や故郷の人々からも、厳しい裁きの預言のために縁を切られてしまい、孤立した生涯を送るのです。まさに涙の預言者としての生き様ですが、これは主イエスの姿につながっているのではないでしょうか。そうして、8節「あなたは弔いの宴会の家に行き、一緒に食べたり飲んだりしてはなんらない。」と主に言われてしまいます。私たち日本人も、親族や家族の葬儀に参加せざるをえない場合があるわけですが、どこまでがクリスチャンとして守るべき規律なのか、考えさせられるわけです。


 自分も宣教の地で、未だ未信者であったおばあちゃんの家を訪ねた時のことでした、彼女が信仰告白したくても迷っている理由は、ご主人がお寺に葬られていて、クリスチャンとなって檀家から抜けてしまうと、主人の墓が守られないことの心配があったわけです。この家には、ご主人の仏壇があり、彼の写真が添えてあります。彼女の家の中の畳に座った時に、目の前にいるご主人に手を合わせて祈りました。主イエス・キリストの名において祈ったのですが、果たして、主が喜ばれることだったのかどうか、今でも不思議に気に掛かっていることでした。


祈り

どうか、これからも偶像に満ちた日本の社会において、葬儀の時にも、主イエスを信じるクリスチャンとしての振る舞いができますように、なにをすべきか導きながら、主の栄光を表すことができますように。アーメン 

文:森 宗孝


 
 
 

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