top of page

2026年3月23日 エレミヤ書15章

  • hccnichigo
  • 3月23日
  • 読了時間: 4分

『あなたのみことばを食べました』


 主イエスがサマリヤの女と会って、初めて自分がメシア・救い主であることを「あなたと話しているこのわたしがそれです。」と宣言された後に、サマリアのリバイバルが始まるわけですが、井戸端に座っておられた主イエスのもとに、食料を求めて町から帰ってきた弟子達が、「先生、食事をしてください」と勧めた時に、主がお答えになりました。 「わたしの食べ物とは、わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げることです。」と返答されました。このエレミア15章にも16節「私はあなたのみことばが見つかったとき、それを食べました。そうして、あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。」どうでしょうか。私たちも、主のみことばが楽しみとなって、心の喜びとなっているでしょうか。みことばを食べるというのは、読んで理解するだけでなく、味わって、それが自分の身体の栄養になって成長するということだと思うのです。単に読んで、頭で理解するだけでは終わらずに、そのみことばを自分の身体の活力とするという大変なことであります。

 

 しかし、この章では、決してユダの民に対して元気づけようとして語られているのではありません。むしろ、厳しい審判のことばが続きます。 1節「主は私(エレミア)に言われた。「たとえモーセとサムエルがわたしの前に立っても、わたしの心はこの民に向かわない。この民をわたしの前から追い出し、立ち去らせよ。」しかも4種類の形でユダの民を罰すると宣言されています。それは、ユダの悪王、マナセ王が偶像礼拝に走ったためですが、どれほどかというと、バアルのためにエルサレムに、いくつもの祭壇を築き、アシュラ像を造って拝んだだけでなく、自分の子供に火の中を通らせ、卜占をし、まじないをし、霊媒や口寄せをし、主の目に悪であることを行って、主の怒りを引き起こしたのです。


 私たちの父なる神が、私たちに対して持っておられる愛は、人間的に表現するならば、燃えるように、よその偶像などを拝むことがあれば、嫉妬の炎で焼きつくほどの愛を持っておられるのです。やがて、神の審判は、バビロン捕囚となって、ユダヤ民族の上に裁きが下されることを私たちは学んでいます。そして、バビロン捕囚から解放された後のユダヤ民族の歩みを見ますと、彼らは徹底的に、偶像崇拝から立直り、ユダヤ人の会堂(シナゴク)を造って、聖書の学びを生活の中に取り入れて、律法を守ることが一番の課題となってゆきます、しかし律法を守ることを重要視するあまりに、モーセ5書から十戒を含めた613の律法として、この613の律法を守るためにさらなる垣根、例えば安息日には仕事をしてはならないとした場合、何が仕事となるかをきめ細かく設定して、それを口伝律法と呼び、律法と同じ、もしくはもっと重要な教えとしてしまったので、律法主義におちいってゆくのでした。


 マタイ12章にイエスは会堂に入って片手の萎えた人を癒します。(口伝律法では安息日に癒しをすることは許されていない)パリサイ人は安息日違反をしたとして責めるのですが、主の返答は、人の子は安息日の主です。あなたがた(パリサイ人)で羊が安息日に穴に落ちたから、それをつかんで引き上げてやらないでしょうか(癒しや労働に当たる行為)、人間は羊よりはるかに価値があります。


 この15章は、主に背いたユダヤの民への、徹底的な裁きを宣言されているのですが、預言者エレミアに対しては、あまりにも民からの反発が激しく、気が落ち込んでいるエレミアに対して、わたしがあなたとともにいて、あなたを救い、あなたを助け出すからだと力づけているのです。私たちの信仰が堅固な岩のようであれば、次々に放たれる矢、中傷であれ、迫害であれ、弾圧の矢は岩に当たってもはじき変えされてしまうのです。


祈り

どうか私たちも主を信じる者として、堅固な信仰を持つことができますように、次々に放たれてくる矢、経済的な問題、夫婦問題、社会問題、友人関係の悪化などなど、サタンが放つ矢に打ち返すだけの岩のような信仰でお守りください。アーメン 

文:森 宗孝


 
 
 

最新記事

すべて表示
2026年6月24日 エゼキエル書43章

1節に彼はエゼキエルを東向きの門に連れて行ったとありますが 彼とは主の御手のことでしょうか?神の栄光が東の方から現れた。何故、東からでしょうか?  東の門は主の栄光が戻る入り口と描かれ、神の民のうちに再び臨することを示すそうです。東の門を通る栄光は神の恵み深い取り扱いを受けた民が罪の赦しを得て神に近づく道のようです。東から現れる栄光は、その計画の完成と神の民が神と共に生きる新しい時代を象徴します。

 
 
 
2026年6月23日 エゼキエル書42章

『主の神殿』  エゼキエル書の40章から48章にかけて描かれている、細かな設計図は、これからエルサレムで再建されて行くソロモン神殿やヘロデ王による神殿のどれとも一致していないのですが、恐らく、将来の主の神殿の姿なのかもしれません。千年王国では、主イエスのもとに神殿があるでしょうから、その時の神殿ではないか、とも想像しますが、これは主の神殿の姿が描かれているのでしょう。  この42章は、特にその中の

 
 
 
2026年6月22日 エゼキエル書41章

『至聖所、本殿を測る』  私たちの世界の創造主であり、聖なる神が罪にまみれた人間の世を訪ねること、それ自身は驚くべき出来事です。私たちを愛する神は、遠いかなたの第3の天におられて、人の世界を眺めておられるだけではなく、この混沌とした、泥沼の世を尋ねて下さって、直接にみことばを語って下さるのです。ちょうど朝日に輝く白いハスの花、露をはじきかえす葉に囲まれて、この世の泥沼の中から伸びてきて花咲花ように

 
 
 

コメント


bottom of page